誰の「初級」か? 〜舞台『ダブル』の持つ構造とその問題点と演劇への愛について

地道にオタクとして経験値を積んでいくと不意にまるで福音かのように報われる瞬間があるというのが持論なのだが、舞台『ダブル』はまさにこれにあたる現場だった。

紀伊國屋ホールでつかこうへい作品を観続けてきたこと、『ダブル』を読み続けてきたこと、ブログを書き続けたこと、どれもこの瞬間のためにやってきたわけではないけど続けてきたことの「ご褒美」みたいな時間を、親の顔より見ているつかさんの写真と『ダブル』の絵が並べて飾られたロビーを抜けていつもの客席に座ってから終演するまでの約2時間20分の間過ごした。受け取れるものが濃密すぎてとてもこんな短い時間に収まるはずのなかった楽しくて愛おしい時間だった。

舞台『ダブル』公演時 紀伊國屋ホールロビー

舞台『ダブル』公演時 紀伊國屋ホールロビー

初めて『ダブル』について書いたのが『初級革命講座飛龍伝』から読み解く漫画『ダブル』 - 感想文としては満点

執筆当時までのつかこうへい作品、特に『初級革命講座 飛龍伝』の改稿版「飛龍伝」を2020年に上演した『飛龍伝2020』を観た経験を元に、つかこうへい作品の読み解き方と解釈を交えて「初級」が『ダブル』で引用されている部分が漫画にどのような効果をもたらしているかを書いた。連載が進むことによって見方が変わったところもあるが、今でも概ね解釈は変わっていない。

その2ヶ月後、コミプレに紀伊國屋ホールで多くつかこうへい作品を手掛けてきた岡村俊一紀伊國屋ホールに長年勤めた鈴木由美子に対して『ダブル』作者 野田彩子がインタビューを行った記事が掲載された。

『ダブル』についてここで明かされたのは、作品着想のきっかけに『初級革命講座 飛龍伝』があったことだ。

野田:わたしが初めて観たつかこうへい作品は、2015年に紀伊國屋ホールで上演された「つかこうへいTriple impact」の『初級革命講座 飛龍伝』でした。正直、観に行った動機は推しの役者が急遽、出演することになったからだったんですが、舞台そのものが本当に素晴らしくて。帰りに劇場の階段を降りながら夢心地だったんです。それは滅多にない経験で、それ以来ずっと『初級革命講座 飛龍伝』を漫画で描く機会を狙っていて、今回ようやく実現しました。

作中において「初級」は物語に沿った戯曲が単に引用された以上の意味を持つのだと言って差し支えない、もっと言えば『ダブル』の核の部分は「初級」編にあると言って相違ないと断言出来るだけの情報だ。

「初級」を漫画で描く。漫画『ダブル』はここから始まっているのだということが、漫画だけでなく舞台版を読み解くにあたって重要なキーワードとなってくる。

昨年2022年7月、つかこうへい十三回忌特別公演「つかこうへいLonely 13 Blues」が企画され、紀伊國屋ホールで『初級革命講座 飛龍伝』が上演された。この公演は、紀伊國屋ホールで上演され、「つかこうへいTriple impact」と同じくRUP主催であり、熊田役にも当時と同様に吉田智則ということで、現在上演出来うる「初級」の中で最も野田彩子が『ダブル』を描くに至ったあの「初級」に最も近い公演と言っても過言ではないと思う。

3公演と少ないながらも全てに足を運び、レポートを書いた。

「初級」とはどんな戯曲か、他のつか作品と比べて何が異なる作品か、また吉田智則の体調不良により3公演中2公演の代役を務めたアンダーの久保田創の演技から鴨島友仁とはどんな役者かを考察した内容だ。

記事にもあるが、実際に上演された作品を観てわかったことは「初級」は作品自体に構造があるということだ。「飛龍伝」が「(回想ではあるものの)闘争自体が現在進行形で進み、闘争の中にあった男女の恋愛にスポットをあてている」のに対して、「初級」は何もかもが終わった段階から物語が始まり「思い出話をしながら男と男がかつての幻影を見ながら愛し合っている物語」だ。「飛龍伝」と「初級」は全く違うものである。

かつてあったはずの青春時代の虚像を群発的なイメージの連なりとして演じ、ラストに強烈なカタルシスが訪れて終幕する。これが『初級革命講座 飛龍伝』の構造だ。

さて、やっと本題の舞台『ダブル』に話を移す。

舞台版は原作とはかなり異なる構成の作品に仕上がっていたのが特筆すべき点だろう。

「原作の裏」を舞台上で進行させるかのように漫画で読める部分を会話でのやり取りの中に織り込むことで直接的に描写をするのは最小限に抑え、板の上では原作にない話を中心にスピンオフ的な仕上がりとなっていた。場所をほぼ多家良が友仁と共に暮らしたアパートから引っ越した先のロフト付きの綺麗なオートロックのマンションの一室のみに限り、原作では他の場で行われる会話も多家良の部屋に場所を移し、登場人物が入れ替わり立ち替わり部屋を訪れることで物語が展開される構成だ。

前述したように「初級」は主に「挫折公団」でのやりとりを中心に群発的な虚像の連なりを描くことでもう戻れない青春の日々を印象付けていた。この手法が引用されているため舞台『ダブル』は原作での場面設定を修正するほど執拗に多家良が「挫折」をする新居でのシーンを描く構成になっている。何度も暗転が乱発されても、紗幕が降りて長尺の映像が流れようとも(観客の誰もが「場転しないのか」と思ったはずだ)、決して場は動かず板の上にはただ多家良の部屋があるのみであることを見るに間違いないだろう。

舞台版で描かれているもの、それは「初級」に重ねて描かれる、今はもうこの手にないものである多家良と友仁の“取り返しつかねぇあの愛の日々”に他ならない。

舞台版が多家良と友仁の“取り返しつかねぇあの愛の日々”を描いていることは、開幕に『熱海殺人事件』のオープニングをそのまま引用していることからもよくわかる。

静寂の紀伊國屋ホールに「白鳥の湖」が流れ始め、だんだん大きくなってゆく。やがて大音量の中で幕が上がる。「熱海」であればドライアイスが立ち込め舞台の真ん中には受話器と現場写真を手に大声で捲し立てる木村伝兵衛が立っているのが『熱海殺人事件』のオープニングだ。非常にドラマチックで演劇でしか味わえない衝撃を与える演劇史に残る幕開けだが、舞台『ダブル』では幕が上がると多家良の日常を描くのに最も相応しい部屋が現れる。このアンマッチに見える演出が意味するところは、「多家良と友仁の(日常の中にある)芝居の始まり」である。

引用したコマから察するに多家良と友仁の芝居という「闘争」はむしろ日常の中にあったのではないかとも思えてくる。

多家良は友仁を好いていたし、友仁もまたそれに気付いていた。気付いていることにも多家良は気付いていた。互いに気付いていないふりをしながら、10年間同じ屋根の下で暮らしてきた。

華江の“これねえ二人の中でお決まりの型なのよ/いつもこんなやりとりして/変な話悦に入ってるわけ/日常の中の芝居”に、日常的に「気付いていない」芝居をしてきた多家良と友仁の蜜月がオーバーラップする。

時折振り返られるからこそ青春なのである〜『初級革命講座 飛龍伝』 - 感想文としては満点

冒頭で紹介した記事でも主張した通り、多家良と友仁は舞台作品の中より日常の中で芝居をしてきた。要するに、過剰に劇的な幕開けから突然現れる部屋は板の上よりもむしろ日常にこそ刺激的なやり取りがあった2人の「つかこうへい作品のような」日常という名の芝居の幕開けを表しているということだ。

加えて「初級」あるいはこれに準ずるその他つかこうへい作品の始まりも示唆する描写でもある。「初級」に限らずつかこうへい作品に見られるのは圧倒的な言葉の応酬による主導権の奪い合いのシーソーゲームだ。押して、押されて、押してを繰り返しながら関係性における主導権を取り合う。「つかこうへいの代表的な幕開け」を冒頭に持ってくることは、「もう2人の目の前に事実として横たわる多家良が友仁を好きという言葉を発するかどうか」で綱引きを繰り返す2人に繋がるものでもある。

ここで問題を提起するが、『ダブル』を原作とした舞台作品として「初級」を摸した構成は正しいのだろうか。

現在、主流の2.5次元舞台の特徴は原作をそのまま再現することである。2次元の作品を3次元に起こす。その際にストーリーを再構築することやキャラクター造形を作品に合わせて改変することは(特に原作のファンに)あまり好まれない傾向にあるのが2.5次元舞台業界のセオリーだ。そして今回舞台版にも携わった業界大手のネルケプランニングは特にこの手法が得意な印象だ。

2.5次元舞台は「原作そのまま」であることが、映画の実写化作品と比べて2.5次元舞台がファンに愛される所以でもあるのだろうし、好きな作品やキャラクターに自分の生きる世界で「会える」体験には私も一定以上の魅力は感じるので否定はしない。だが演出の中屋敷法仁と主催としてネルケプランニングと名を連ねるゴーチブラザーズはどちらかというと演劇的手法を用いて2次元作品を表現する手法に定評がある。脚本の青木豪についてはシアタークリエ上演の『花より男子』脚本や劇団四季『バケモノの子』演出を手掛けているとのことだがあまりデータがないのでわかりかねるところはあったが、作品がある程度漫画的表現を演劇的表現に変換した作品作りがなされているであろうことは情報が解禁された時点で予想出来た。ただ「紀伊國屋ホールでやるのだから当然「初級」編をやるのだろうが、どうやって?」というところは全くわからないまま観劇することとなった。

予想出来る部分と出来ない部分がありつつ演劇ならではの表現が見られることを楽しみにしていたのだが、想像を超えて「初級」を意識した構造を持った作品となっており、舞台『ダブル』が持つ構造を単純に説明をするとすれば、舞台『ダブル』は『初級革命講座 飛龍伝』を漫画に変換した『ダブル』を更に舞台に変換して『初級革命講座 飛龍伝』に酷似した作品をやるという入れ子入れ子を重ねた仕上がりだった。

確かに「2.5次元」ではなくあくまでも舞台というメディアに合った表現を用いた「漫画を舞台化」した面白い作品作りを期待していたが、それはあくまでも原作の良さを損なわない形であることが前提であり、原作の魅力を表現するためのベストが尽くされた選択がなされた結果の話だ。

では原作の漫画『ダブル』の本質的な魅力とは何か。『ダブル』を舞台化するにあたって表現すべきことは何か。難解なつかこうへいの戯曲『初級革命講座 飛龍伝』を現代に描かれる演劇漫画として落とし込み熊田と山崎の関係を「ニアBL」として成立させたことだろう。

(ここまでこんなにも解説しておいてなんだが)「初級」を「初級」が解らなくとも面白い作品として成立しているのが本質的な『ダブル』の面白さであり、だからこそ野田彩子は凄い漫画家なのである。

だとすると、「初級」の構造を用いて漫画『ダブル』の舞台化をやろうという試みは「初級」を知らない多くの観客にとってはあまりにも不親切な設計であるだけでなく漫画『ダブル』の魅力を損ねる形で表現された舞台化作品ということになる。

また「初級」はつかこうへい作品の中でも難解で、初期の戯曲であるため以降に書かれた代表作『熱海殺人事件』や『蒲田行進曲』のような大衆性と整然とした美しさは無い。粗削りで当時の熱狂や勢いや感情のみを戯曲化しているため決して戯曲として優れているとは言い難いのが「初級」であるから、それを前提知識がない観客に突然提供したところでブツ切りのシーンを見せられる不完全な作品という印象になってしまうだろう(作中、友仁が言うように演劇作品の面白さは必ずしも物語の良さだけが評価の対象となるわけではないところにあることも事実だが)。

それ故に少なくとも舞台『ダブル』はセオリー通りという意味での狭義的な「2.5次元舞台」ではないだけでなく、漫画の舞台化作品としても正しいか正しくないかでいえば正しくない作品であろうと私は思う。

しかし漫画の舞台化作品としての正しさではなく単に舞台作品としての視座で舞台『ダブル』を観た時、少なくとも舞台『ダブル』は面白かったし、楽しい観劇体験だったことも事実である。

「初級」あるいはつか作品を観たことがある者からすればハイコンテクストな『ダブル』がもう一段階ハイコンテクストになった舞台作品に対しての楽しさがあったし、舞台『ダブル』はわれわれも「初級」を踏襲するかのように、かつて見たシーンをもう2度とこの目にすることのない最高のあの瞬間という意味での「青春」の1ページの幻影をもう一度観ることの出来た作品であったからだ。

特に「初級」冒頭の山崎の独白を友仁が読むシーンは、戯曲にある山崎が小夜子に対して「嫉妬しちゃうんです」との本音に多家良に嫉妬の感情を抱く友仁の重苦しい感情を重ねて描写されていているだけでなく、かつて中屋敷演出『飛龍伝』で山崎を演じた玉置玲央が紀伊國屋ホールで「初級」の山崎を演じる時空を超えた幻影としても感じられて素晴らしかった。

「初級」にも耐えうるだろう強靭な肉体と紀伊國屋ホールに真っ直ぐ響かせられる喉を持つ舞台に立つべき役者・玉置玲央に「ニア初級」を演じてもらえることが出来たという意味でも舞台版が上演された意味は(少なくとも演劇とつかこうへい作品を愛する者としては)あったのだと感じた。

宝田多家良を演じた和田雅成は原作や脚本に対する理解度が及んでおらず全く「ニアBL」やつかこうへい作品文脈*1に乗ってこない芝居を披露していたのが残念だったが(キャラクターとしての宝田多家良の本質的な魅力はやはり鴨島友仁を愛しすぎていることと考えているが和田の演じる多家良にはその執着が感じられなかった)、これをも利用するかのように原作や演劇だけでなく友仁にとっての多家良を原作以上のウェットさをもって愛しつくすことで鴨島友仁だけでなく『ダブル』をも体現した玉置玲央には大きな拍手を送りたい。

また圧倒的スター性を武器に子役上がりでアイドル経験者でもある生まれながらにスターである轟九十九をつかこうへい作品文脈に乗りつつ、理知的な演技プランの構築と自身の人に寄り添い慈しむ姿勢をもって非常に魅力的に演じた井澤勇貴も素晴らしかった。

そして「友仁と同じ劇団の仲間」として、完全に原作にはない話だけを展開させながら、脚本家による露悪趣味かとすら感じられる演劇愛をも一手に引き受け舞台をより高みに持ち上げた永島敬三のパワーと観客に愛される力にも賞賛を。

演劇で演劇と役者を描く。特殊な作品に取り組む役者や制作は楽しさを滲ませ「演劇の素晴らしさ」を感じているようだ。これ自体は良いことだ。しかしいつもと比べて明らかに人口密度の高いロビーや客席を眺めて、SNSフォロワーの多い役者が出演し人気の漫画タイトルを冠した「ニア初級」にいつもとは比にならないくらいの人が集まっていることやそれが賛否は分かれつつも概ね賞賛されていることを思い、どうにも「演劇」は敗北している気がしてきてしまう(あくまでこれは私の感傷的な思いに過ぎないのだけれど)。

舞台を観てから改めて原作を読んだ。4巻には「初級」を演出する岐華江の葛藤と闘いが描かれている。

つかこうへい作品の演出家として評価を受けた夫・斗知生を踏襲した演出をするとインタビューでは答えながらも、稽古場では斗知生が遺した演出ノートに黒塗りを施しながら新しい演出をメモに加えていく。友仁に斗知生の演出通りに「初級」を作ることを提案されても“お芝居は生なの!古くなった表現は変えなきゃ”と曲げない。対話から友仁は華江の斗知生の演出と戦う意志を確信して“華江さん新しい『初級』をやる気ですね”と発言し、“超えるんですよ斗知生さんを”“世界一の『初級』にしましょう”と華江を励ましながら誓う。

これを読みながらなんだか、華江が「初級」を我が物にしようと戦うかのように、『ダブル』に挑むことで演劇に「初級」を取り戻す試みが舞台『ダブル』だったのだなと腑に落ちた気分だった。そう考えると、是非はともかく、私にとってそして演劇にとっては意味のある作品であったのだろう。

舞台版『ダブル』は多家良と友仁は炬燵の中で湯気の立ち込める鍋を囲みながら生温い日常の中で終幕を迎える。

結末を迎えていない連載中の漫画化のラストシーンとしては(ある程度消極的ながらも)考えられうる落とし所であるが、「ニア初級」として考えると構造として物足りないものとなっている。生温い日常が続いていくことを感じさせる描写は強烈なカタルシスを感じさせない。

ラストシーンに至るまでの過程が『ダブル』を「ニア初級」として演劇に取り戻す試みであったとするならば、このラストは「ニア初級」としての『ダブル』を野田彩子に返す試みであろう。ラストシーンの生温さは『ダブル』のカタルシスは野田彩子にしか描けないのだというメッセージに思える。

『ダブル』だらけの紀伊國屋ホールのロビーで「こんな夢みたいな景色見ちゃったら私が原作者なら成仏しちゃって続きが描けなくなっちゃうよ!」なんて友人達とふざけて話していたが、舞台版のラストは製作陣からの愛であり要請であると考えている。『ダブル』ファンとして同じく『ダブル』ファンの製作陣と共に作品がいつか完結してくれればと思う。

 

公演は4月9日まで紀伊國屋ホールにて。当日券・配信あり。

*1:ここでは『ダブル』作中で華江が役者の生きてきた人生が役に宿るというところを指す