『飛龍伝2020』と『初級革命講座 飛龍伝』のラストシーンを含む内容に多く触れる記事です。
今年7月8日から7月25日に企画されたつかこうへい十三回忌特別公演「つかこうへいLonely 13 Blues」にて紀伊國屋ホールで上演された『初級革命講座 飛龍伝』。
『ダブル』作品の着想に至ったきっかけである読者として、そして紀伊國屋ホールで観るつかこうへい作品を愛している者としては是非とも観劇したかった作品だった。
現在の形の「飛龍伝」は、演出の岡村さんがつかさんに次は何を上演すればいいかと意見を求められて「飛龍伝を大幅に改稿した『飛龍伝』をやりましょう」と提案してのがきっかけで今の形になったとトークイベントで聞いた記憶がある。
「初級」が元革命家の熊田と機動隊の山崎のやりとりを中心に熊田の義娘アイ子や亡くなった妻・小夜子との交わりも描いた群像劇的なつくりであるのに対して「飛龍伝」は機動隊の山崎と革命家の神林美智子(「初級」における小夜子のような存在)の恋物語にフォーカスを当てた作品に仕上がっている。これ自体はあらすじからもわかることだが、観劇するまでに2作品がどれほど違ったものなのかイメージを掴むには至っていなかった。
実際観劇したところ、初期の作品ということもあるのか「型」が全く違った作品のようだと感じた。それなりの数のつかこうへい作品を観てきて、なんとなく「つかさんの作品ってこういうつくりだよな」と思い込んでいたものが全部通用しなくて愕然とした。これは他の作品のような「起承転結」が無かったからのように思う。「起起起結」あるいは「起転転結」と形容するしかない構成に、初日は度肝を抜かれるばかりだった。
つか作品は物語としては非常にシンプルで、だからこそ頑強な構造が出来上がっておりその中で役者がどれだけ色を出せるかが楽しむポイントのひとつであると私は考えており、そのため「つかこうへい作品とは強い構造こそが肝」だと言い続けていた。しかし「初級」に関して言えば、物語を構築する構造があるというよりかは作品自体に構造があったように思う。戯曲をシークエンス毎に区切ってよく見てみると一貫して「誰かの目線から見る、かつてあったはずの虚像」について語られている。それが群発的なイメージの連なりとして表現されており、「振り返って思い出すからこそ青春であり、かつ今はないものなのである」とこちらにまで訴えかけてきた。
幕が上がると山崎一平は怒りを湛えながら機動隊に指示を出す。「殺せ」「学生皆殺しだ」と呻りながらふらふらと歩くタンクトップ1枚を身につけただけの強靭なその肉体に、はち切れんばかりの激情が重なりあってこの目に映る。徐に語り出すのはかつてひとつの部屋で寝食を共にした小夜子のこと。学生のマドンナ的存在で機動隊の中でも憧れの存在だという小夜子と山崎の出会い、過ごした日々、別れの足跡をもういない小夜子を想いながら辿る。*1
それから場が移り挫折した熊田とアイ子の日常の中で語られる在りし日の革命、小夜子の想いが語られる独白、熊田と挫折公団を尋ねてきた山崎の戯れつくようなおかしみのあるやりとり、国会前への復帰を決意した熊田とアイ子の交わり、「石売り娘」と山崎の会話。次々と描かれるそれらはどれもやはり過去の出来事やそれを懐かしむものだ。
やがてそれらの「過去」が集約するように彼らが生きる時代の国会前に、熊田がタキシードにサングラスを身につけてあの時のカリスマ性をそのままに帰還し、閉幕する。
これが『初級革命講座 飛龍伝』の大まかな流れだ。
今回の『初級革命講座 飛龍伝』は熊田役の吉田智則が体調不良のため千穐楽のみの出演となり、代役を久保田創が務めた。獣のような高橋龍輝(山崎役)を去なす創くんの様は見事なもので、千穐楽に台詞を口にしはじめた智則さんの「そのまま」さには驚いた。そしてその再現性の高さに創くんの持つ技術を感じながら、これは必ずしも褒め言葉ではなくて創くんには申し訳ないのだが「ああ、やはり彼は鴨島友仁のような俳優だなあ」と思った。
もちろん友仁さんは「BLナイズドされた」キャラクターであるから創くんとは全く違った可愛さとか良さも悪さもあるのだが、智則さんが稽古場で発したのをそのままトレースしているんだろうとしか言えないほどの口ぶりと動きでアイ子に嫌味を言い、そっくりそのまま山崎とのやり取りを行っている様は友仁を彷彿とさせた。
ただ、どれだけ「そのまま」であっても、創くんの熊田には智則さん(や恐らく多家良も)のそれにはあった愛せるポイントが見つけられなかった。ただただうだつの上がらないむかつく男。
『ダブル』第二十七幕 ニジンスキーにて演出家の華江は「熊田が公一郎に似てるから‼︎(アイ子は熊田に優しくできるのだ)」と主張していたが、これは単に顔などの造形だけの話ではなく熊田が本当にどれだけむかつく言動を繰り返しても許せてしまうようなかわいげがある人なのだろうと思う(そして公一郎はその「たらし」具合を受け継いでいる)。少なくとも吉田智則の熊田を見ているとそのように実感できる*2。
創くんが上手ければ上手いほど明らかになるのは、久保田創という俳優は基礎がきちんとあって、芝居に対して真面目で、でも智則さんほどの魅力や発想の面白みには欠ける、代役が「こなせる」良い俳優だという事実だった。智則さんが演じる熊田がアイ子とのやり取りで「ホップするんです」と言いながら創くんとは違ってお茶目な動きをしていたのを見て、益々に確信してしまった。
これはちょっと残酷な話だが、しかし『ダブル』の宝田多家良と鴨島友仁の本質的な相容れなさでもあって、観客として、そして読者としては大変に面白い経験であった。(念を押して言っておきたいのは、私は創くんのことを役者としてすごく信頼していて、代役に関しても「よくぞやり切ってくれた」ととても感謝している。)
久保田創と吉田智則の両者が演じた「初級」を見比べた後、(私の想像の範疇を出ない話ではあるが)智則さんが演じた熊田は国会前に何だかんだと言い訳して帰って来なかったんじゃないかと考えた。そういう意気地のなさみたいなものすら可愛いひとであるし「初級」は常にかつてあったはずの虚像を巡る戯曲だから、「飛龍伝」ラストシーンの神林美智子のように「そこにはいないはずの愛しい人」の像として登場しているのではないか。
熊田は現実には生きているし、あの瞬間も部屋でぐうたらしているかもしれないけど、でも青春時代に見たあの頃の熊田はもうどこにもいないことの裏付けのような表現だ。
創くんが演じる熊田はきっときちんと国会前に来ていた。真面目だから。そういう「額面通り」なところにかわいげがある俳優だし、私は彼の(そして友仁の)そういうところが好きだ。
ただ、冒頭にも言ったように「初級」は虚像を語るものがたりであるから(この言い方自体は正しくないが)正しい『初級革命講座 飛龍伝』があるとするならば吉田智則が演じたものがそうであろう。
両者の「初級」を見比べたからこそこのように解釈したし、作品の本質に近づけたように思う。今はもうないからこそ振り返られるからこそ「青春」であり、「初級」は青春時代の物語なのだ。
『初級革命講座 飛龍伝』。激動の時代を、平穏ながらも静かに停滞している現代日本に照射することは容易なことではなかっただろうと感じたが、見事に演者はやってのけた。一度立ち止まってしまえばもう2度と同じ熱量を発することは出来ないと言わんばかりに台詞を発し、舞台上で命を燃やし続けた高橋龍輝。誰よりも流す涙が美しい佐々木ありさ。そして2人の似て非なる熊田。矢継ぎ早な台詞の応酬に刹那を感じたたった3公演は奇跡みたいで、だからこそあの時代の姿をわずかながら目に出来た気がする。
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