感想文としては満点

演劇と言葉あそび

【Web再録】茶番

こちらの文章は某企画に寄稿したものです。楽しい企画をありがとうございました!

 

なるほど結婚式とは茶番である。

そう得心したのは大学生だった頃に参列した従姉妹の結婚式の最中だった。もう五年ほど前のことで、私は成人式用に買ってもらった立派な搾りの振袖を着付けてもらって参加していた。

茶番などと聞くと捻くれた態度で式に臨んでいたと思われるかもしれないが、そのようなつもりは決してない。とても良い式だったからこそあたたかい気持ちを持って素直に感じたことを表した言葉が冒頭の一言である。

チャペルでの新婦入場に始まり、夫婦となるカップルが神父の前で誓いを立て、皆でぞろぞろと披露宴会場へ移動した後にケーキ入刀をしているのを囃し立ててみたり、新婦が両親への手紙で会場の涙を誘ったり。結婚式というのは結婚式のあるべき姿のままで皆が想像する通り恙無く進行するのが何よりも良しとされている催しであろう。ある程度サプライズの余興などを入れ込む余地はあるかもしれないが、そうは言っても常識的な範疇を超える出来事はそう起こらないし、少なくとも起きることが期待されていることはまず無いだろう。

つまり結婚式とはある意味でのつまらなさこそが肝要なのだ。予定調和の四文字が空間に生温く漂いながらもそこに確かに感じられる安定感・安心感こそが結婚式の真の醍醐味なのであり、新たに夫婦となるふたりの未来に向けられる祝福のひとつの形であるのだ。法的な解釈は一旦脇に置いておくとして、私自身は「結婚」とは共に生活を営んでゆくことだと考えている。結婚を日々の営みだと考えるならば、その序章である結婚式もまた粛々と運営されるべきであろう。

では自分の事はというと、人の結婚式に参加することはやぶさかではないもののつまらない催しをわざわざ企画しようという気にはならないから自分が結婚式を挙げることにはとんと興味がない。

しかし結婚自体に興味が無いわけでもない。他人と生活を運営していくこと自体に興味がないわけではないからだ。人がそれなりに生きていける程度のスペースを残して散らかした部屋でも平気で生活が出来てしまい(弁解するが決して掃除をしていない汚い部屋に住んでいるわけではなく単に片付けが不得手なのである)、洗濯には柔軟剤などは全く使わない「不丁寧」な暮らしをしているし(これも弁解するとゴワゴワのバスタオルじゃないとなんだか拭いた気がしないのだ)、つい最近も一定期間の無職生活を経て再就職した際に国民健康保険から脱退する手続きをしなければならないのを知らずにサラリーマンとして一ヶ月半過ごしてやっとこの事に気付き保険料の二重払いをする羽目になった社会不適合者っぷりである(後々還付されるらしい)から、仮に共に生活を運営していこうという人間がいたとして相手に少しもメリットをもたらせる気がしないことを考えると結婚もやはり難しい気がする。一人暮らしがそれなりに長くなると自分のプライベートな空間に誰かが浸食するというのは現実味がないとも感じることも含め、あまり現実的な話ではない気がしてくる。

基本的には結婚したから結婚式を挙げるわけであるから興味がない上に現実的にも不可能というのが私と結婚式との距離感と言えるだろう。

だが仮にどうしても「理想の結婚式」を考えて欲しいと言われたなら、私は「紀伊國屋ホールで結婚式を挙げたい」と答えるだろう。理由はただひとつ。何を隠そう私はつかこうへいの戯曲『熱海殺人事件』が好きで自他共に認める「熱海のオタク」であるからだ。

 

突然だが、私と『熱海殺人事件』あるいは木村伝兵衛との馴れ初めを書く。

初めて紀伊國屋ホールで『熱海殺人事件』を観たのは、二〇一七年のこと。「喉が強い木村伝兵衛がいる」との評判を聞き、地元・大阪から夜行バスに揺られ紀伊國屋ホールに向かった。

白鳥の湖が爆音で流れるお馴染みの開幕で現場写真を手に板の上に現れた味方良介演じる木村伝兵衛は凄まじいインパクトを私に残した。客席の一番後ろにまで飛んでいく気持ちの良い張りのある声で劇場空間を完璧に支配する男に、私は己の心の弱さを暴かれているようでもあり、守られているようでもある心地になった。被虐趣味めいた欲を満たされると同時に気高い魂に触れたかのような神々しさで総ての雑念が浄化されていくような感覚はこれまで生きてきて体感したことがなく、座席の上で脳が蕩けるような心地よさを味わいながら訳もなく涙を流した。

以降、木村伝兵衛に惚れ込み、紀伊國屋ホールに通い木村伝兵衛の神性を体感する度に「わたしの神様はここにいるんだ」との思いを強くしている。

そして今では木村伝兵衛の妻としての人格を得ている。

と言っても世の中のオタク女性が二次元のキャラクターに恋をしている所謂「夢女」ともまた違ったニュアンスだ。特殊なシチュエーションを好む人や結婚という制度を利用しない/したくない人もいるかもしれないが、一般的に夢女は任意のキャラクターと恋愛関係になり、その結果婚姻関係へと発展する設定を採用することが多いだろう。しかし私は私の「神様」と結婚をしているので、木村伝兵衛との間に恋愛感情があったことはない。

信心深くはない仏教徒の家に生まれて特に宗教性のない中学・高校・大学を卒業したので詳しくはなくインターネットで軽く調べた情報で恐縮だが、キリスト教カトリックの修道女は神に生活の全てを捧げるため「清貧」「従順」「貞潔」三つの誓いを立てるのだという。そしてこのうちの「貞潔」とは結婚せずイエス・キリストに総てを捧げて生きるいうことらしい。結婚することは神以外に隷属することになるため神との契りを破ることになるから結婚しないとのことで、独自の解釈にはなるが「今は仕事が恋人」的なフレーズがあることを考えると誰かと共に生きることは選ばずに一生を神と共に生きるというのはつまり「神と結婚している状態」にあると称しても差し支えないのではないかと個人的には考えている。

私と木村伝兵衛との関係は、そんな関係になんとなく近い感覚がある。

まぁ、自分から縁遠い「結婚」を手に入らないからこそ内心にはある憧れのせいで妙に拗らせて捉えているために木村伝兵衛と「結婚」していると自分自身で理解しているようにしているかもしれないが。

さて、私の歪んだ結婚観はさておき(あくまで己の心象風景について話したつもりだが、ここまで書いてふと宗教的な話が事務所NGだったらどうしようと心配になったので梅津さんに無事に届いた想定でお礼を言っておくこととする。寛大な株式会社bambooさんありがとうございます!)、数少ない友人一同も結婚にはあまり興味がないように見えるし、ただ一人の姉妹である妹は私とは違って社交的で社会性のある人間でありながら結婚式は挙げずに結婚したため、もう今後自分の人生で結婚式という催しに携わることはないかもしれないと思っていた。

 

そんな私に一風変わった結婚式体験をさせてくれたのがSOLO Performance ENGEKI「HAPPY WEDDING」だった。

「ハピ婚」は脚本の構成が特に気に入った作品だった。ひとつ役を演じるごとに少しずつ明るみになる事実には笑ったり驚いたりしながら楽しませてもらったし、梅津瑞樹ただひとりが演じているはずのキャラクターが式が進行していくにつれてそれぞれ人間関係を構築していくのを見ているのは不思議な体験であり、独特の気持ち良さがあった。

 

「実は新婦が不在」の結婚式を題材にしていたのも、その場では演じていないはずのキャラクターが「見える」ほどに上手い梅津さんの芝居とひとり芝居の特性を最大限に活かしたつくりであったし、その巧妙さには思わず唸った。

世間一般的な物事の尺度で見れば亡くなった人との式を挙げるなんていうのはあり得ないことであろうし、「ハピ婚」は身内が亡くなった時でさえ喪に服し祝い事を避ける宗教観を持つ日本人が多く暮らす日本が舞台であるから春彦の挙げた結婚式には不謹慎だとの声が全くなかったわけではないのではないかと想像する。来場者の協力なしには押し進められない行事であったであろうことを考えると春彦と未知の結婚式はまさしく「茶番」と言える式だったのではないだろうか。

春彦が勤めるお好み焼き屋の店長もロバート田中も春彦のバンド仲間も思い返せばどこか様子がおかしくて引っかかるところはあるはずなのに何故か見逃してしまった。梅津瑞樹が披露した含みのある演技は見事だったのに、物語が秘めていた最大であり公然の秘密が明かされた時に素直に驚いてしまった。後から考えてみると、これは私が冒頭に述べたように元々結婚式を茶番として捉えていたからである気がした。

また、客席の雰囲気が相まっていたせいかもしれないとも思う。「ハピ婚」の演者は梅津瑞樹一人であるから客席には梅津さんのファンあるいは少なくとも梅津さんに対して好意的で梅津さんの芝居に興味がある人が座っていたはずだろう。観客の梅津さんへ向ける優しさだとか、この劇場空間を作り上げることに協力したいという強い思いだとか、そういうものを肌で感じたからこそ違和感なく観ていたのかもしれないと考えたのだ。

演劇は役者と観客が共犯関係となり共に作り上げるものだというが、俳優と観客あるいはファンのわれわれはどこまでいっても他人同士であるしファン側の欲が先行してしまうような関係であることも事実だからこそ、ファンから「協力したい、力になりたい」と真に思わせられる俳優は案外少ないように私は思う。しかしそのように思わせることは、作品を劇場空間ごと作っていく特性の強い舞台作品に出演する舞台俳優には絶対的に必要な技量でもあると言えるだろう。

作品を観に来た、役者のファンではない、むしろ役者の存在すら知らなかった人ごと一瞬で夢中にさせるくらいの愛され力と巻き込み力が必要なのが舞台役者という職業なのかもしれない。

「ファンです」言い切れるほどではないにしても少なからず拝見して来た芝居(いくつか拝見しているが紀伊國屋ホールで上演された『キルミーアゲイン'21』も観た)や「ろくにんよれば町内会」やSNSにアップされたエチュードやコントから期待していた通りの、いやそれ以上に梅津さんが様々な役を代わる代わるに演じる様には大いに楽しませてもらい作品に引き込まれた。癖のあるお好み焼き屋の店長や、やたらと横文字を使うコンサル業の男は特にお馴染みの「味」がする芝居で見たかったものが見られたと満足したし、春彦やアキは私にとっては新鮮な気持ちで見た役柄で、梅津さんの役者としての新たな一面を見られたと感じている。未知の同僚による人体切断ショーやバンド仲間による余興は披露している誰もが愛おしくなるキュートさとポップさがあり、大きな笑い声が出ないよう必死で堪えながら観た。

こういった梅津さんの持つ魅力が、客席の多くを占める梅津ファンの「梅津さんの芝居に協力したい」という気持ちを起こさせ「ハピ婚」内の参列者の式を成立させたいとの思いとオーバーラップして私に新鮮な驚きを与えてくれたのではなかろうか。無論、いつしか私もその一人となっていたように思う。

そうだとするならば、梅津さんは単に芝居が上手いだけではなく、舞台役者として重要なスキルを持った役者と言えるであろう。私はそう思う。

私にとっては「ハピ婚」は良い作品を観られた機会であったと同時に、梅津さんの愛される力、ファンと梅津さんとの良い関係を見られたという点でも良い体験でもあった。

「愛され俳優」梅津瑞樹が今後もこのような楽しい催しをしてくれることを期待して、時々気まぐれに穴を覗き込んでみたり、劇場に行ったりしたいなあと考えている。

 

ところでこれも「ハピ婚」を観て持った感想のひとつなのですが。梅津さん、熊田留吉を演ってみる気はありませんか?