感想文としては満点

演劇と言葉あそび

春、何ものにも負けぬ強い志を持つ木村伝兵衛

 このタイトルで「熱海殺人事件」の記事を書こうと思ったのは2度目。1度目は初めて荒井敦史が木村伝兵衛を務めた昨年の春、3月の終わりのことだ。

 2020年の3月といえば、1月に日本でも初めて感染者が確認された新型コロナウイルスが徐々に国内で広まり、いよいよ東京では本格的な対策が必要なのではないかという雰囲気になった頃。政府による明確な指針や補償の話もないままに演劇やライブなどの公演が中止や延期になるケースが目立つようになった時期だ。

 毎年恒例となっている春の紀伊國屋ホールでの『熱海殺人事件』。昨年はつかこうへい没後10年企画のひとつとして、中屋敷法仁を演出に迎え『改竄・熱海殺人事件』と銘打った作品としてバージョン違いの「ザ・ロンゲストスプリング」と「モンテカルロ・イリュージョン」が二本立てで上演された。

 先んじて初日を迎えた「モンテカルロ・イリュージョン」を観劇するために劇場に足を運んだ時、ロビーはおおよそ公演が行われる劇場とは思えない雰囲気で、座席に座ってもなお上演するのか半信半疑だった。この座組での公演は常に張り詰めた緊張感を持ってコロナ禍の世に届けられたが、紀伊國屋ホールでの千穐楽を迎える前に東京都知事からの週末外出自粛要請を受けて上演は打ち切りとなってしまった。たった1年前のことだが、当時は「コロナ禍」という言葉もなかったと記憶している。

 対して、5日遅れて初日を迎えた荒井敦史主演の「ザ・ロンゲストスプリング」は「モンテカルロ・イリュージョン」が上演された実績があったからか、観客としては危なげなく初日を迎えた印象だった。勿論、その裏では上演にこぎつけるための制作・劇場スタッフによる並々ならぬ努力があったことだろうし、キャスト陣も公演期間中に不安な日々を過ごしたであろうことは想像に難くない。劇場の外では“不要不急”なものに対する自粛を強いる圧力が日毎に増していっていたし、感染者数も増加する一方だったからだ。しかし、そんな中でも最終週の週末に予定されていた1公演が中止になったものの「ザ・ロンゲストスプリング」は運良く平日に予定されていた千穐楽を迎えることが出来た。

 「モンテカルロ・イリュージョン」については初日公演を終えた時点で記事を書いている(春、狂い咲く木村伝兵衛 - 感想文としては満点)のだが、なぜ「ザ・ロンゲストスプリング」の記事を書けないままここまで来てしまったかというと(これは今となっては笑い話として聞いて欲しいのだが)あまりにも初日の出来が酷く、書きあぐねていたからだ。

 荒井に「熱海」に対して思い入れがあり、念願の木村伝兵衛役であったと知ったのはキャスティングが発表されてからしばらく後の公演が始まる前でのタイミングだった。しかしこれを知らずとも「ザ・ロンゲストスプリング」が、彼の炸裂する「熱海愛」を余すことなく感じられる公演であったことは間違いない。ようやく立てた紀伊國屋ホールの板の上の真ん中で、彼は誰の目から見ても明らかなほどに緊張していたからだ。

 幕が開いた初日公演。膝が震え、タバコを持つ手が震える木村伝兵衛部長刑事の姿がそこにはあった。その上、ひどく空回っている様子だった。その様は「このままでは荒井さんが血管ブチ切れて死んだ初めての伝兵衛になってしまう」と心配してしまうほどだ。

 中屋敷の手により“改竄”された「ザ・ロンゲストスプリング」は良く言えば新鮮、悪く言えば(従来の「熱海」にはあった)盛り上がりに欠けた造りに仕上げられていた。つまり、“改竄”した熱海はいつものようには盛り上がってくれない。キャストが一新された「熱海」の観客は「熱海」を観慣れた人たちばかりではないからいつものような熱海を期待していないので“改竄”によって生み出された流れに上手く乗れていたのだが、荒井だけはいつも盛り上がるべきシーンで盛り上がらないことに焦り、かつて観客側で感動した「熱海」の感動をなんとか伝えまいと奮闘していたように見えた。演劇は戯曲、演出、舞台芸術に役者、そして観客もすべてひっくるめて作品となる総合芸術であるが、これらのすべてが噛み合わないままラストに縺れ込む形で初日の公演は幕を閉じた。

 初挑戦の「熱海」では“改竄”された戯曲に振り回されっぱなしだった荒井だったが、相性の悪い戯曲をなんとか乗りこなす過程で彼が勝ち得た彼だけの武器がある。それは人間らしい木村伝兵衛像だ。

 「味方良介一強」とも言える時代を経て、ファンから「彼の木村伝兵衛はまるで神のようだ」ともしばしば評された味方良介の次に木村伝兵衛の座を継ぐものとして、彼が果敢に「熱海」に立ち向かうために手にしたのは、神性とは真逆の圧倒的な人間の心根の優しさとこれに起因する不器用な真っ直ぐさだった。

 1年の時が経ち、2021年の「熱海殺人事件」は紀伊國屋ホール改修前の幕引き公演として、紀伊國屋ホールにカムバックした味方良介と荒井敦史の二人体制で『熱海殺人事件 ラストレジェンド〜旋律のダブルスタンバイ〜』として上演された。一年越しの荒井敦史演じる木村伝兵衛部長刑事に前年の頼りのなさはかけらもなく、当時は冗談混じりで言ったかもしれない「公演やりましょうよ。もうミカティ(味方良介)の時代は終わりだよ」(中屋敷法仁×荒井敦史×多和田任益インタビュー 伝説の舞台の令和初上演はあえて改竄してみる、舞台『改竄・熱海殺人事件』 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイスの発言より)は「あながち間違いではなくなったのではないか」と思えるほどに見事な出来だった。

(『熱海殺人事件 ラスト・レジェンド〜旋律のダブルスタンバイ〜』についての記事:『熱海殺人事件 ラストレジェンド ~旋律のダブルスタンバイ~』感想 - 感想文としては満点

 そして6月。改修を終えた新・紀伊國屋ホールにて『新・熱海殺人事件』が上演された。

 初日公演の開演前には、こけら落とし公演ということでサプライズで北区つかこうへい劇団の二期生吉田智則も駆けつけた。前説の濱田和馬に「改修後こけら落とし公演の初日だというのに風間(杜夫)は、馬場(徹)は、味方(良介)はどうした」と詰められ「それでも幕は上がり『熱海殺人事件』は始まるのだ」と吼える元劇団員の力強さは、改修しても変わらぬ紀伊國屋ホールと『熱海殺人事件』の心のみならず、変わりゆく時代のもの悲しさまでもをわれわれに伝えてくれた。

 「熱海」を観劇しながらいつも感じることがある。「NEW GENERATION」、「CROSS OVER」、「LAST GENERATION」、「改竄」、「ラストレジェンド」。様々なテーマが与えられた「熱海」を観てきたが、それでもこの作品が伝えてくれ、そしてこの先も伝えるべきテーマはいつの時代も変わらないのではないか、ということだ。人間が人間らしく生きるとはどういうことか。どのような生まれであっても、貧富の差があれども、人は人を知り、解ろうとし、前を向いて歩むことが必要であること。これが幸せになるために必要であること。そして人は幸せになるために生まれてきたこと。人間の根源的な営みに寄り添うように様々な立場から語られるからこそ、「熱海」の言葉は誰もの琴線に触れるのだ。

 そして「新」を冠した「熱海」はというと。

 いつもの「熱海」の演出を務める岡村俊一ではなく、『教場』『Dr.コトー診療所』などを演出した実績のある中江功が演出家として迎えられ、演出家が「観客としてこう解釈した」要素が盛り込まれた『新・熱海殺人事件』は「新」と題するほどの真新しいものとはいかずとも「新解釈・熱海殺人事件」と言える仕上がりになっており、ラブストーリーの形に整えられた「ネオ熱海」は、確かに今まで見たことのない「熱海」であった。制作陣、解釈、ストーリーラインさえも変わった「熱海」には、意地でも「熱海」を「熱海」たらしめた荒井敦史の木村伝兵衛の姿があった。

 短い期間で、“改竄”に振り回され、ラストレジェンドと対峙したからこそ練り上げられた荒井敦史の木村伝兵衛像。新たな劇場で、物語の中で、彼こそが「熱海」であった。「熱海」を全力で愛し体現しようとした彼の力強さに後押しされて、この先の新しい紀伊國屋ホールにも、再び春は訪れると信じられた。

 

 

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