感想文としては満点

演劇と言葉あそび

舞台『青の炎』を観に行ったら「あやや」が目の前に現れた

あやや」がいた

 こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロにあややがいた!!!!オタクの誇張表現とか過言とかじゃなく、本当に「あの」あややが2022年に目の前に現れた。観劇後に待ち合わせた嵐オタクの人と「この公演を一言で表すなら、あややがいた! じゃないですか?」って話をするくらいに、本当に目の前にあややがいた。

 元二宮担として観ておくべきかなと思い、勇んで初日のチケットを取った舞台『青の炎』。映画を観たのも、原作小説を読んだのも、嵐ファンをやっていた中高生の頃で遠い記憶。観劇前夜にAmazonプライムで映画を少しだけ眺めてみて、そういえばこんなシーンあったかもと思う程度の記憶を携えながら、スペゼロに向かった。

 櫛森秀一(北村諒)がロードレーサーを走らせ、独白しながら登校する。役者が周囲で原作小説を朗読するような形で語る。遅刻ギリギリで教室に滑り込んで、秀一はクラスメイトと雑談をして、そして福原紀子(飯窪春菜)が秀一に声を掛ける。

 「あややだ」と思った。一言どころか一音発した瞬間から知ってる音がした。紀子が「きみ」と語りかける度にちょっとこっそり笑っちゃうくらいに、あややの紀子がいた。

 原作小説がある映画を舞台化しているわけではないだろうし(劇場で小説を売っているし)、実際に北村さんはじめ他のキャストはそれぞれが新たに起こした役として演じていたにも拘らず、紀子だけがあの時の紀子のままでそこにいた。これが何よりもインパクトを残し、奇妙なうねりのようなものを生んで作品の面白さの1ピースとなっていたように思う。

 飯窪さんは原作小説ファンのようなので意外な役作りではあるが、当時のあややを推してたはるなんのオタクの人がこの世に存在したら絶対観て欲しいくらいの完成度の高さだった。

90年代後半〜00年代の若さが現代に描かれるちぐはぐさ

 「あややがいた」の衝撃は一度置いて作品としての話をする。正直、映画を視聴済みの身からすると少し物足りない印象ではあった。

 というのも、この作品を現代で上演するにあたって一番の壁が現代の若者は当時よりずっと賢いことにあると思っていて、これは単なる知能とかの問題ではなくて(ましてや秀一は優等生であるし)単純に覗きうる世の中がもっと多くて広いことから来るものだと考えられる。

 戯曲は少々原作から手が加えられていて、秀一と紀子がデートの約束をするのはチャットアプリで(ということはスマホを持っている)、「ゲイと噂が立てられている」と抗議する友人に秀一は「多様性の時代だ」と諭す。そんな今どきの若者がする追い詰められ方ってどんなものなんだろうというのが若者ではない私には想像がしにくいのだが、もっと「賢い」やり方を見つけてしまうんじゃないかなあと考えてしまう(この「賢さ」は実行方法の周到さにも繋がるかもしれないけど、逆に実行しない方向へ働くこともあると思う)。

 秀一やクラスメイトの人物造形も設定に合わせて現代に寄っているように思えて、自然ではあるが金髪の二宮和也が放っていたような若者特有の尖りだとか切迫感、危うさなんかは感じづらく、むしろ爽やかさすらあった。観やすくはあるが、物足りなさの原因にもなっていた。

 かつて“17歳の完全犯罪”と称された危うい犯行と現代的さは、どう考えてもちぐはぐだった。

 しかしこのちぐはぐさに多少は目をつぶっても良いと思えたのも事実で、小説を原作にした舞台作品としては、下手したらくどいとも言えそうな朗読のような演出をはじめとする非常に演劇的な演出とこれによって顕になる貴志祐介の書く地の文の面白さによる作品の魅力が確かにあった。とすると、新作の舞台作品としては真っ当に「良い作品だった」と評価できるのではないか。どうしてかまわりくどくしか褒められないが、率直な感想だ。

 私が映画で一番印象に残っているのは、予告にもあるからかもしれないが、秀一が好きなものを羅列している声だ。まっとうに優等生に見えて、家族を愛し、おおよそウイスキーをこっそりストレートで飲んでいそうもない北村さんが演じる秀一はどんな声色で好きなものの話をするのだろう。

 

 公演期間は11月6日まで。11月3日は配信あり(各回3500円)。田中涼星が全く異なる3役に挑んでいるのもお薦めポイント。

舞台「青の炎」公式サイト

 それにしても『青の炎』がアマプラで観れちゃうの、信じられない気持ちになる。