『蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』お疲れ様でした。全11公演を総て観劇したからといって妙な感慨深さがないのが不思議だった。舞台上の人達も私もやり切ったのだと思う。ただ謎でも何でもなく可愛いと思える、味方良介と石田明が心を通わせ生まれた愛おしい作品だった。フォーエバーハッピーセット。
幕開けと共にヤスが語る。「銀ちゃんが死んだ。僕は未だに信じられないでいる」。
「銀ちゃんが逝く」というタイトルからもわかるように銀ちゃんは死ぬ。「お前が死ねば娘は助かる」という言葉を信じ、ルリ子の命を助けるために。
最近『熱海殺人事件』の犯人を大山金太郎と書くのは「ネタバレ」であるから避けてくれとまったくもって的外れなイチャモンをつけられたが、つか作品の強さはそういうところとは全く別のところにあるのだとこの作品を観ていてつくづくと感じた。強い構造の中に物語が流れているのだと考えると、結果論に過ぎない事象はむしろ瑣末なことだと思う。
語りの後、監督のスタートの合図と共に時間は逆行し、倉岡銀四郎演じる土方歳三と中村屋喜三郎演じる坂本龍馬の決闘シーンの撮影が始まる。作中で坂本龍馬は「若いもんを先に立たせて自分だけ生き残ろうって魂胆だろう」と土方歳三を責め立てる。銀ちゃんのその後の行動を想起させるような状況と台詞だ。作品の中での出来事が現実となることもあるし、現実もまた作品に影響を与える。演者の性格や生き様を強く写し出すつかこうへい作品においてはままあることであることを暗示している。
まともに「撮影」を行う芝居は冒頭の暗示的なシーンのみで、その後は監督のスタートの合図やフィルムのキリキリ回る音を執拗に使用しながら、撮影というテイで役者がコミュニケーションを交わす。時にはふいに本音が出たり、素で話している時よりよっぽど素直な感情を吐露する。もしこれが映像作品であればかなりおかしな風景だが、これはあくまでも演劇なのだ。「演劇」のことを演劇で語るために、つかこうへいは「映画の撮影」という技法を使った。なんとも捻くれ者だとも思うが、それでも役者とスタァの強さを信じる気持ちを隠さないから健気な置き換えである。
人は嘘をつく。役者はもっと嘘をつく。必死に「虚像」を守るために。
そんな役者が、役者だからこそ、演じている時は本音を語る。心の扉を開いてしまう。物語の中でだけ、人は素直でいられるのだ。物語が強ければ強いほど、役者はその構造に身を委ねて内面を開放する。むしろ、これができなければつか作品は面白くならない。「蒲田行進曲」にはその作品としての強さをひしひしと感じた。
役者が汗をダラダラ流して鼻水垂らしているのもお構いなしに「現実」と「作品」の境界線がわからなくなるほどに己を曝け出している姿から感じられるのはただ一つ、人間の美しさであるように思う。
今回、味方良介がつか作品に愛される理由は実はここにあるような気がした。圧倒的な喉の強さ。早い台詞を超越する発語力。動じなさ。どれも素晴らしいが、とにかく倉岡銀四郎を演じる味方良介は美しいのだ。
銀ちゃんが特に美しかったのが、階段落ちの前に幼い頃見た河原の石のことを語る場面。2年前の朗読劇では1幕終わりのヤスが階段落ちをするシーン「上がって来いヤス」が素晴らしかったが、今年の銀ちゃんは銀ちゃんとヤスの関係性の中にあるものではなくもっとスケールの大きい話を語る時に殊更美しかった。これには役者としてより大きくなった味方良介の度量の大きさを感じた。
倉岡銀四郎の生まれを哀むことで、人間の「生」すらも憂う。味方良介のその姿はただただ純然たる人間の美しさを放っていた。単に自身の美しさに集約せずに人間の美しさを体現しているのだと心の底から思える。美しくて、愛おしくて、感動する。「人間ってこんなに美しかったんだ」と思えてくる。「人間」すらも背負えるから彼は紀伊國屋ホールのスタァさんを張っていられたのだと今更ながらに気付いた。
そんなスタァさんが倒れた時。ただの人間に還っていくようなそんな感覚があった。階段落ちをやり遂げ倒れ込んだ倉岡銀四郎のゼーハーと喘いでいるその今を精一杯に生きる役者の今の今まで屈強で無敵だったはずの身体を見ていると愛おしさにどうにも堪らなくなって駆け寄って抱きしめたくなったものだった。
千穐楽ではケンさえも銀ちゃんは抱きしめていた。ただの人として最後の時を生きたのかもしれない。
戯曲への理解力に秀でており、客席に伝える力が圧倒的に強い石田明が客席を代表するかのように全力で銀ちゃんを愛するヤスとして味方良介の脇で支える。執拗にスタァ像を語りながら強い姿を見せ続ける中村喜三郎の葛藤を見事に演じ切った細貝圭が作品の縦軸を強固なものにしていて、それを作品として切り取る監督久保田創は長年つか作品に携わり続けた説得力を武器に作品をより「本物」へと仕上げる。カメラマンタカラのスタァの姿を切り取るパワフルさと楽しそうな姿勢は活動屋の意地や醍醐味を感じる。何より佐久本宝が役名もない役に出演しているのだ。どうして銀ちゃんがこんなに愛されるのか」をこれほどまでに見せつけられる人選は無いだろう。そして漲り続ける底なしの体力を持ち小夏やカメラマンタカラを励まし奮い立たせる若山先生こと高橋龍輝は物語に一気に華やかで広大な物語にした。
私が見てきた紀伊國屋ホールのすべてと、それ以上が目の前に繰り広げられていて、こんなに良い公演はないと思った。お亡くなりになる前には名前も知らなかった偉大な演出家もきっと喜んでいるだろう。もしそうでなかったら、私が文句つけてやる。それほどまでに良い公演に立ち会えたと思っています。
はい、お疲れさん!