「逃げ恥」でガンバレる人類たちへ

 お正月、いかがお過ごしですか。わたしは書きたかった記事を上げられたのでひとまず安心しております。良かったら読んでください。

 

 さて、舌の根も乾かぬうちに野木亜紀子脚本『逃げるは恥だが役に立つ』の悪口を言う私をみなさんがどう捉えるかは私にはわかりかねるが(もちろん原作ありきの作品であることは理解している)、私は私を誇りに思う。

 『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』、冒頭シーンの森山みくりの台詞「時代は令和だっていうのに」でついと心理的距離が生まれてしまった。「正しい」側にいる人の傲慢さを感知したから。あまりに早い別離だった。この作品が連続ドラマで積み上げたものを鑑みても、その響きは冷たかった。

 そこからはもう、「正しさ」、「正しさ」、「正しさ」の羅列にうんざりするばかりだった。同性愛者が当たり前にいて、計画的無痛分娩が選べて……みたいな羅列だけで問題提起しているつもりになっているように感じたし、それではあまりにがさつだとも感じた。人の営みはもっと煩雑なはずだ。ただ「正しさ」の論拠にされただけの彼らのことを思うことで抗いたいし、言葉にすることで戦いたい。私は。ただただ考えることを続けるだけ。人の営みとはそれでしか運用できない。

 「正しさ」の羅列の合間には他人に説教じみた説得が織り込まれており、それで相互理解……しているつもりですか?平匡とみくりは家族だから話し合って問題解決につとめるけれど、ホモソ脳で無意識に失礼な態度を取る他人の灰原は正論パンチして一方的に黙らせていい存在なのだなあ、彼らにとっては、と感じざるを得なかった。

 文化を「何を恥だと捉えるものか」だとするならば。他人を見た目でジャッジする恥を知らないものを……つまり文化の違うものを一方的に説教することは果たして「正しい」のだろうか。Twitterの「ハイ論破」みたいなことをドラマでやる必要性があったのだろうか。愛が足りない気がした。他人と他人とが思い合い解ろうとすることの輝きを2時間のスペシャルドラマに求めることは間違いだっただろうか。虚構だからこそやって欲しかった。

 この作品を観て喜んでいる人たちは、自分が「正しい」側の考えを持っていることに、何も分かっていない人たちに対して自分と同じような考えを持っている人たちが代わりに説教してくれることに、自己満足して溜飲を下げているだけではなかったですか?それがあなたたちの言う優しい世界ですか?人間というものをもう少し買い被ってみては?

 というか正論って何でしょうね?正しさの軸は「私」にしかないからね。それでも私は「逃げ恥」でガンバレない自分自身を愛する気持ちでこれを書き残している。

 私はいつだって自分を奮い立たせて戦って勝ち得たものを大事に生きているつもりでいるので、他人の褌で相撲を取る人のことを理解出来ないし、したくもない。そうでない人もいるということを認めていく努力をすることで、私自身はそうならないように抗うことで、戦おう。これが私なりの祈り。

 ガンバレなかったみんなへ。これからも戦っていこうね。今が生きづらいとしても、他を愛することで自分を愛せるはずだから。

 みんな、愛してるよ!