感想文としては満点

演劇と言葉あそび

演劇バカによる観劇バカへの愛の鞭、「獣道一直線!!!」

※通常この記載はしないが、今回は致し方なく記載する。ラストシーンのネタバレあり。

 

 「獣道一直線!!!」は紛れもなく演劇バカによる観劇バカへの愛の鞭であると思う。騙したい方も騙されたい方も、理屈じゃない。ただ一時の快楽を求めて能動的に狂ってしまうのだ。騙したい、騙されたい、ただそれだけ。それが演劇バカで、それが観劇バカだ!

 

 実在の事件をモデルにブラックジョーク盛り盛りで暴れまくり滅茶苦茶な結末を迎える最低の作品だった。それでも楽しめてしまうのは単純に面白いから。そしてこの作品が後先考えず理屈なしに一時の快楽を追う者への讃美を込めた作品だったからに他ならない。

 エンタメ作品を消費していて「昨今、ストレスのなさを求めすぎていないか?」と感じる。SNSであらゆる作品の感想を眺めていても「この作品はコンプライアンスに気を使っていて、ストレスなく観られる」なんて褒め言葉を見かける事も多い。

 確かにコンプライアンスは守られるべきだ。制作が炎上してせっかくの作品を台無しにする必要はない。消費者にとっても娯楽を娯楽として消費するのに無駄なストレスを感じる必要はないのだからコンテンツを選ぶ際に自分に負荷がかかりすぎないかどうかを見極めることは作品を選ぶ上で重要なポイントだ。

 しかしそんな時代の渦中にいて、清廉潔白なコンテンツだけを好んで選んで気持ちよく消費しているだけで良いのだろうかという疑問が浮かぶ事がある。どこかに必ずあるはずの人間のよくない部分を全部なかったことにして気持ちよくさせてくれるだけの作品ばかりでいいのだろうか。それは臭いものに蓋をしているだけではないだろうか。差別、貧困、格差。現実に臭いものは確かに存在するのに見て見ぬふりを続けることは正しい選択だろうか。わたしは危機感と疑念を抱いていた。

 コロナ禍でエンタテインメントは「不要不急」とされた。その事象に対するカウンターとしてエンタテイメントがいかに人間に希望を与えるか、可能性があるか、救いであるかを説く声が多く上がった。わたしはその意見に賛同しながらもどこか無力感のようなものを感じていた。エンタテインメントが与える希望って、そんなにすごいものだろうか。好きな気持ちに惑わされて影響力の範囲を見誤っているのではなかろうか、とひっそり考えていた。多くのエンタテイメントを愛する人たちの思いに水を差す必要はないと判断したから、ひっそりと。

 劇中で魔性の女・松戸かなえと出会い魅了された生瀬勝久池田成志古田新太演じる3人の役者達は、男を騙し殺し金を得た松戸が裁判で有利になるように彼女の半生を描いた映画を撮ることを画策する。松戸に魅了された悪友たちの行動は、わたしが抱いていた疑念に見事にリンクしていた。芸術作品は物事を良い方向に導くだけではない。狡賢く利用すれば悪用することだって可能だ。そして決定的な事実の前にはどれだけ頑強に創り上げられた虚構も屈する他ない。だからこそ関武行はあのような結末を迎えてしまう。状況証拠からも世の論調からも彼女の有罪はほぼ確定になるだろう。彼らはきっとそれを頭のどこかでわかっている。それでも映画を撮ると腹を括る彼らの、作り上げるべき作品の力に過剰な期待はせず、しかし作品が持つであろう力を信じる姿勢はわたしの心を軽くさせた。創作は祈りに近い行為だ。悲観的状況を打破する万能薬では決してない。それを知っている演劇おじさんたちが演劇を作り続けている事実のなんと頼もしいことか。

  ラストシーン、関は悪友たちに見事に騙されてしまう。松戸かなえに騙されていることに自覚的でありながら、その状況を楽しむようにコンビニのATMで松戸に10万円を振り込む関の姿はまさに安くないお金でチケットを買って創り上げられた虚構に騙されに劇場へ向かう客席の私達そのもののように映った。かなり世間のムードが収束に向かっているにせよ、この状況下で閉鎖された劇場空間でギュウギュウと着席率の上がった客席に押し込まれたわれわれは世間的には狂っている。そんなわれわれが、騙す側にまんまと騙され、更に騙され、しまいには取り殺されてしまう「私」の姿にカタルシスを感じてしまうのは必然だ。狂って、騙されて、殺されるほどの衝撃を求めてあの場にいたのだから。

 そしてそんなヤツらしかいない劇場空間を作りあげてしまった「このご時世」とやらをわたしは嫌いになりきれない。「このご時世」は、今ここで、この瞬間にしかないものに狂うために向かう現場を現場たらしめるのに十分な面白さをくれるから。

 

 ここで視点を変えるが、あの悪友たちは関を騙す側でありながら同時に松戸かなえに騙され続けている存在でもある。遊び半分で松戸に騙されたフリをする関の行動を咎めるかのような結論を出した悪友たちの姿もまた「こちとら生半可な気持ちで観劇バカやってんじゃねぇぞ、ナメんな!」と変な覚悟と意地を持ってしまうわれわれの姿に重なるのではないだろうか。彼らが「勝って」しまい迎えるラストは、宮藤官九郎なりの観劇バカへの愛と讃辞に思えてならない。

 騙す者と騙される者。これからも持ちつ持たれつ、騙し合いながら劇場に通っていたい。それが観劇バカなりの獣道一直線だ!!!