感想文としては満点

演劇と言葉あそび

A.B.C-Z Star Line Travel Concert

2016年8月11日A.B.C-Z Star Line Travel Concert 1部 2部 @代々木第一体育館

 「A.B.C-Zのコンサートは絶対に楽しいよね」が毎度コンサートの後に交わされていた私と友達との合い言葉みたいなもので、そういう信頼感がA.B.C-Zへの一番の愛情だったように思う。“なかま”と呼ぶには遠い距離感だけど確かにみんなで新しくて大事なたからものを抱えている気持ちでいた。みんなで楽しんでいる間だけは無敵だった。

 今回のコンサートはそういう信頼と気持ちを全部裏切られたような気持ちになったコンサートだった。正直「A.B.C-Z 2013 Twinkle Twinkle Star Tour」や「A.B.C-Z Summer Consert 2014 “Legend”」を創りあげた人間がつくったとは思いたくないほど酷い出来で、これなら前回の焼き増しであった方がどんなに良かったかと思う。思想も美学も感じない、投げやりなコンサートだった。

 相変わらずソロコーナーが良い出来だったのが更に悲しさを誘った。何が違うのかわからないけれど、何かが決定的に違う空間の中で、以前と変わらぬ それでいて進化を感じさせる踊りを見せるひとを信じるしかなかった。

 良かった点は大阪公演を経てから書く。今はただかなしいきもちでいっぱいなんだよなあ。

金澤朋子バースデーイベント2016 第一部

2016年7月4日 金澤朋子バースデーイベント2016第一部 @クラブチッタ川崎

 朋子は愛も不安も決意も憧れも情熱も目標も努力も幸せも、つまりどんなプラスの感情もマイナスの感情も、全部全部歌で表現してくれるアイドルだって気付いて、それはファンとしてこの上ない幸せな事象で、ステージにいる朋子がやっぱりだーいすきだなと思えた幸せなイベントでした。わたしはぜったいにここで朋子にもらったものを糧にして生きたい。

 「(この1年つらいこともあったんですよ、個人的に。悩んだりすることとか。)そりゃありますよ人間ですから。」って言ってのける軽やかさがやっぱり好き。誰よりも人間ぽくて、誰よりもアイドルで、それが同居していてなお軽やかできれいで、そういう朋子をあいしています。

ライブ・スペクタクル「NARUTO」

 改めて2.5次元の面白さはその表現においての試みの多様さにあるなと感じた作品。“現実離れした”シーンの再現を、無限にある表現方法のひとつを選び出した結果が面白い。試行錯誤が見えるのも面白いし、試行錯誤の末に辿り着いたのが人力的な方法である事が多いのも面白い。勿論思いもよらなかった新しい表現に驚かされるのも面白い。「手作り」感がみえるのがひとつの魅力かもしれない。

 表現ひとつを取っても、言葉ひとつを取っても、演技に関しても、すべてが大仰で、アラも見えるので、本作の印象をひとことで表すならば「大味」ということばが適切なはずだ。演劇というよりかはまさにスペクタクル、派手な見世物で、まるでヒーローショウのようにも感じられた。しかしそれが「NARUTO」らしい気もするし、少年漫画らしい気もするので、すべてにおいてひとつの正解だったようにおもう。

 一番おもしろいと感じたシーンはチャクラの具現化。“九尾のチャクラが具現化”をプロジェクションマッピングによる映像ではなく、蛍光の九尾によって表現することで歌舞伎のような仰々しさが見えるのが新鮮だった。

 “俳優とそのオーラ”という視点でみると須賀健太という俳優、佐藤流司という俳優は面白いなと感じた。須賀くんはどうしたって華のある俳優というか、陽のひとだなと見ていてわかった。そのオーラは序盤の悪役には適さないのだけれど、不思議と主人公の仲間となればその場で馴染むのでみていてすごく面白い事象を観察出来たのではないだろうか。佐藤くんは自分という器にキャラクターを流し込むのがうまい。2.5のバイブル的な技術力を持っている。それに加えて、彼を注視する観客のひとみが更に彼をキャラクターとして完成させるのではないか。彼は知名度を上げるほどに更に凄みが増していく俳優なのだろうと感じた。

血の繋がりはどこまで

2015年10月27日投稿 2015年7月観劇 「ファウスト〜最後の聖戦〜」 @東京芸術劇場プレイハウス,森ノ宮ピロティホール

 私が観たのは7月11日・7月25日・26日のそれぞれ2公演、全6公演。自分が出来る限り観た。私にとってオフィスト・フェレスは、五関晃一を好きになるきっかけになったキャラクターだったから、作品がどんな出来であろうともう二度と会えないと思い、この目に焼き付けていたかったので。そもそも私はこのミュージカルを批判したが、それはあくまで“創作をする”ということに対して真摯でない製作陣に対してであったので、「ファウスト」自体をそこまで憎んでいたかというと、そうでもない。

 昨年も観劇しているはずなのだが、作品そのものに対する印象は薄く、記憶の端にも置かれていなかったので、作品としての「ファウスト」自体には思い入れがないから、初めはフラットな状態で観ることが出来た。作品そのものに関しては、簡潔に言うならば、最低の出来だった。テーマに伴うそれぞれの事象が存在する意味は出来ても、登場人物の心情がその事象に至る起因になっていないであろうと思うことが多かったからだ。答えは合ってるけど、途中式はまるで違う、あるいはすっ飛ばして解を当てずっぽうに書いているような、プロセスがスカスカの台本だった。7月の記事でも書いたが演者のクオリティは最高で、それなのに制作側の本気が感じられなくて、だからこの作品に対して終始一貫して特別な感情は生まれないのだろうと思っていた。しかし、全公演を終えてみるとそういうわけにもいかなくなっていた。とはいっても、作品としてのファウストに対する思いというよりも、演者五関晃一への思いが生まれたなという感じ。
 この舞台のラストシーンは、魂が解き放たれ自由になったファウストが暗闇の中、目を覚ましラナンキュラスの花を手に「もし一つだけ夢が叶うなら〜」と歌い始める。そこへオフィストが登場し「もしもう一度やり直せるなら〜」と続けて歌う。やがて全ての出演者が舞台上へ現れ「ひとは誰もがひとりでうまれてくる」「いつか必ず終わる それは誰にも変えられない」と歌う、というもの。気付いたのは最終日の昼公演だった気がする、あるいはその公演からのことだったのか。五関くんはこの歌をこの上なく幸せだと言わんとするような顔で歌うのだ。その満ち足りた顔で歌う彼を見て(その姿は人生に満足したオフィストの姿だったわけですが)全てが浄化されるような、解き放たれたような感じがしてもう何も言うまい、と思った次第です。久々に真にアイドルの尊さに触れた気がした。
 「ファウスト」で一番好きだったシーンはオフィストとガブリエルが刺し違える直前のシーン、メフィストから、ガブリエルとひとつの魂に戻ることの許しを得たオフィストはメフィストに頭を下げて礼を言う。頭を上げたオフィストが小さく、それでもゆっくりと深呼吸をする。その仕草がびっくりするほど美しくて、更にその仕草の後の表情が更に美しくて、好きだった。あのシーンは、メフィスト・フェレスとの乖離を表していたのではないかと思う。ひとつ小さく呼吸をした瞬間、ひとつの魂として存在するものとなり、ガブリエルと刺し違え、世界を浄化出来るようになった。明らかに表情に変化があったし、話の辻褄も合う。死ぬために「親離れ」するというのは、なんだか、切ないけれど、血を分けたもの(悪魔に血があるかは別として)とは、死ぬことでしか関係を断つことが出来ないのかもしれないなと思う。ファウストとマリアは死んでなお繋がっていたので、この辺りは私の憶測ですが。あるいは、ファウストとマリアが死んでなお繋がっていることが出来たならば、オフィストがまたどこかでメフィストと出会うこともあるのかもしれない。血を共有するのではなく、分けたからこそ。メフィスト、寂しいだろうしそうなって欲しい…(と思うくらいの人並みの優しさは持ち合わせているんですよ、私だって)。
 最後に「血」繋がりでひとつ、五関くんの血振りは世界一カッコいい。