感想文としては満点

演劇と言葉あそび

金澤朋子バースデーイベント2016 第一部

2016年7月4日 金澤朋子バースデーイベント2016第一部 @クラブチッタ川崎

 朋子は愛も不安も決意も憧れも情熱も目標も努力も幸せも、つまりどんなプラスの感情もマイナスの感情も、全部全部歌で表現してくれるアイドルだって気付いて、それはファンとしてこの上ない幸せな事象で、ステージにいる朋子がやっぱりだーいすきだなと思えた幸せなイベントでした。わたしはぜったいにここで朋子にもらったものを糧にして生きたい。

 「(この1年つらいこともあったんですよ、個人的に。悩んだりすることとか。)そりゃありますよ人間ですから。」って言ってのける軽やかさがやっぱり好き。誰よりも人間ぽくて、誰よりもアイドルで、それが同居していてなお軽やかできれいで、そういう朋子をあいしています。

ライブ・スペクタクル「NARUTO」

 改めて2.5次元の面白さはその表現においての試みの多様さにあるなと感じた作品。“現実離れした”シーンの再現を、無限にある表現方法のひとつを選び出した結果が面白い。試行錯誤が見えるのも面白いし、試行錯誤の末に辿り着いたのが人力的な方法である事が多いのも面白い。勿論思いもよらなかった新しい表現に驚かされるのも面白い。「手作り」感がみえるのがひとつの魅力かもしれない。

 表現ひとつを取っても、言葉ひとつを取っても、演技に関しても、すべてが大仰で、アラも見えるので、本作の印象をひとことで表すならば「大味」ということばが適切なはずだ。演劇というよりかはまさにスペクタクル、派手な見世物で、まるでヒーローショウのようにも感じられた。しかしそれが「NARUTO」らしい気もするし、少年漫画らしい気もするので、すべてにおいてひとつの正解だったようにおもう。

 一番おもしろいと感じたシーンはチャクラの具現化。“九尾のチャクラが具現化”をプロジェクションマッピングによる映像ではなく、蛍光の九尾によって表現することで歌舞伎のような仰々しさが見えるのが新鮮だった。

 “俳優とそのオーラ”という視点でみると須賀健太という俳優、佐藤流司という俳優は面白いなと感じた。須賀くんはどうしたって華のある俳優というか、陽のひとだなと見ていてわかった。そのオーラは序盤の悪役には適さないのだけれど、不思議と主人公の仲間となればその場で馴染むのでみていてすごく面白い事象を観察出来たのではないだろうか。佐藤くんは自分という器にキャラクターを流し込むのがうまい。2.5のバイブル的な技術力を持っている。それに加えて、彼を注視する観客のひとみが更に彼をキャラクターとして完成させるのではないか。彼は知名度を上げるほどに更に凄みが増していく俳優なのだろうと感じた。

血の繋がりはどこまで

2015年10月27日投稿 2015年7月観劇 「ファウスト〜最後の聖戦〜」 @東京芸術劇場プレイハウス,森ノ宮ピロティホール

 私が観たのは7月11日・7月25日・26日のそれぞれ2公演、全6公演。自分が出来る限り観た。私にとってオフィスト・フェレスは、五関晃一を好きになるきっかけになったキャラクターだったから、作品がどんな出来であろうともう二度と会えないと思い、この目に焼き付けていたかったので。そもそも私はこのミュージカルを批判したが、それはあくまで“創作をする”ということに対して真摯でない製作陣に対してであったので、「ファウスト」自体をそこまで憎んでいたかというと、そうでもない。

 昨年も観劇しているはずなのだが、作品そのものに対する印象は薄く、記憶の端にも置かれていなかったので、作品としての「ファウスト」自体には思い入れがないから、初めはフラットな状態で観ることが出来た。作品そのものに関しては、簡潔に言うならば、最低の出来だった。テーマに伴うそれぞれの事象が存在する意味は出来ても、登場人物の心情がその事象に至る起因になっていないであろうと思うことが多かったからだ。答えは合ってるけど、途中式はまるで違う、あるいはすっ飛ばして解を当てずっぽうに書いているような、プロセスがスカスカの台本だった。7月の記事でも書いたが演者のクオリティは最高で、それなのに制作側の本気が感じられなくて、だからこの作品に対して終始一貫して特別な感情は生まれないのだろうと思っていた。しかし、全公演を終えてみるとそういうわけにもいかなくなっていた。とはいっても、作品としてのファウストに対する思いというよりも、演者五関晃一への思いが生まれたなという感じ。
 この舞台のラストシーンは、魂が解き放たれ自由になったファウストが暗闇の中、目を覚ましラナンキュラスの花を手に「もし一つだけ夢が叶うなら〜」と歌い始める。そこへオフィストが登場し「もしもう一度やり直せるなら〜」と続けて歌う。やがて全ての出演者が舞台上へ現れ「ひとは誰もがひとりでうまれてくる」「いつか必ず終わる それは誰にも変えられない」と歌う、というもの。気付いたのは最終日の昼公演だった気がする、あるいはその公演からのことだったのか。五関くんはこの歌をこの上なく幸せだと言わんとするような顔で歌うのだ。その満ち足りた顔で歌う彼を見て(その姿は人生に満足したオフィストの姿だったわけですが)全てが浄化されるような、解き放たれたような感じがしてもう何も言うまい、と思った次第です。久々に真にアイドルの尊さに触れた気がした。
 「ファウスト」で一番好きだったシーンはオフィストとガブリエルが刺し違える直前のシーン、メフィストから、ガブリエルとひとつの魂に戻ることの許しを得たオフィストはメフィストに頭を下げて礼を言う。頭を上げたオフィストが小さく、それでもゆっくりと深呼吸をする。その仕草がびっくりするほど美しくて、更にその仕草の後の表情が更に美しくて、好きだった。あのシーンは、メフィスト・フェレスとの乖離を表していたのではないかと思う。ひとつ小さく呼吸をした瞬間、ひとつの魂として存在するものとなり、ガブリエルと刺し違え、世界を浄化出来るようになった。明らかに表情に変化があったし、話の辻褄も合う。死ぬために「親離れ」するというのは、なんだか、切ないけれど、血を分けたもの(悪魔に血があるかは別として)とは、死ぬことでしか関係を断つことが出来ないのかもしれないなと思う。ファウストとマリアは死んでなお繋がっていたので、この辺りは私の憶測ですが。あるいは、ファウストとマリアが死んでなお繋がっていることが出来たならば、オフィストがまたどこかでメフィストと出会うこともあるのかもしれない。血を共有するのではなく、分けたからこそ。メフィスト、寂しいだろうしそうなって欲しい…(と思うくらいの人並みの優しさは持ち合わせているんですよ、私だって)。
 最後に「血」繋がりでひとつ、五関くんの血振りは世界一カッコいい。

“美しさ”を追い求めて

2016年5月28日 「それいゆ」@梅田芸術劇場シアタードラマシティ

 優馬くんの芝居といえば私は昨年観劇した「ドリアン・グレイの肖像」がたいへん素晴らしかったせいで、これを思い出さざるを得ないわけだけれど、「ドリアン・グレイの肖像」がいつか握られた祖母の皺々の手を思い出すような「死」の禍々しさを描いた作品だったのに対して、「それいゆ」は「生」の禍々しさを描いたものだった。生きている限り人は理想を追い求めなければならない、その事への恐怖を感じた。しかし私達は考え続けなければならない。何故なら「美しさ」は世界を変えるから。

 “本質的な美”を追い求めた中原淳一の生涯を描いた作品だから、舞台美術も洗練された美しいものになっていて欲しかったなと思わなくはないが、窓と鏡とショウケースを兼ねた装置のアイデアはとても面白かった。舞台開始前から観客を写すように舞台上に鎮座していた鏡は、世を写す窓へと変化し、舞台中盤では人形を飾るショウケースへと変わる。鏡と人形は中原にとって同義であり、どちらも“じぶん”そのものであったと言える。それはショウケースに飾られる人形のように舞台上に登場した中原の姿を論拠のひとつとして挙げ主張することが出来る。あるいは登場人物の美しさを映えさせるものだったのかもしれない。優馬くんは確かに見目麗しいけれど、これは見た目がどうというものではなく、不器用なりに、すべての登場人物が自分の思うままの世界を追い求めており心地よかった。

 舞子がもんぺを履いている姿を見た時も、「もんぺ姿の少女を描け」と強要された時も、中原は「もんぺそのものが悪いわけではない」と何度も主張し、その機能性を評価さえしていた。「もんぺを履くことを強要していることこそが良くないことであり美しくないことだ」と。中原淳一の何事に対しても「かくあるべき」がない軽やかさは美しく、憧れる。一番信じるものがきっと「美しさ」だからあの軽やかさなんだろう。完全な造形美を求めていながらも美しさが不変ではないことを誰より知っている彼の揺らぎは見ていて痛い。しかし美しさは普遍であることも彼は知っている。それこそが“本質的な美しさ”であり、その存在を知っていたからこそしなやかながらも頑固に生きられたのだろう。自分の信念を曲げようとする者には本気で怒る姿もまた格好良かった。

 ラストをどう迎えるのか気になっていたのだけれど、ベタであれ中原の目標が達成されて良かったと思った。人形は中原の鏡であるから、中原の人生こそが“完全な造形美”であるならば、彼が造った人形もまた“完全な造形美”であるに違いないのだ。

 中原淳一のように、信じるものがない者を、私はきらいでいたい。それは何も宗教でなくてもよい。必要なのは信念だ。ただ、信念を貫き通すことが難しいこともよく知っている。誰かの信念が自分の信念を曲げることもあるし、逆もまた然りであるからだ。諦めないで、曲げないでいるのってほんとうに難しい。しかし、だからこそ考え続けなくてはならないのだ。考えることでしか美しさには近付けない。それは不変の事実だ。そして私達はきっと美しさを追い求めなければならない。中原の言う通り、美しさは世界を変えるからだ。傾国 傾城なんかはよく謳われるものだが、美しさは世界を平和にし得るかもしれないと、私はこの舞台を観て、そう思うようになった。