感想文としては満点

演劇と言葉あそび

春、狂い咲く木村伝兵衛

 例年より緊張しながら地下通路を抜けて辿り着いた紀伊國屋書店 新宿本店はいつも通りに鎮座していた。B7出口から出たのにわざわざ正面玄関に向かってポスターを視認しないと本当に公演があるのか確信を持てなかったし、チケットをもぎってもらいロビーに入ってもなお本当に上演されるのか不安で仕方がなかった。

 まずは無事に初日公演が上演されたことを祝い、沢山の感謝を述べたい。本当におめでとうございます。そしてありがとうございます!今年も大好き!

 よく観察するとロビーやその他にも(これは3年くらい後にネタにするからよろしく)精一杯踏ん張ってなんとかこの公演の幕を上げようとした人々の努力が感じられた。私は9年前の今頃の自粛ムードはほぼ体験していないと言っても過言ではないから初めての体験だった。あの時幕が上がった瞬間の感動は演劇を愛する者としていつまでも忘れられない気がするし、忘れちゃいけない気がする。私は凡人だからきっと娯楽がなくたって生きていけるけど、“不要不急の”ものに全精力を傾ける人が生きていけないような余裕のない世界では生きていけないなって改めて思う。

 

 公演は素晴らしかった。外ではあんなに自粛ムードなのに、だからこそ、紀伊國屋で美しく狂う木村伝兵衛はまさに狂い咲きの花のような禍々しさと人を惹きつける力を感じた。

 朗々と歌い上げられる歌謡曲、演歌。着実に進む時計の針。それなのに「本来の熱海」から歪んだ時系列。全てが私を狂わせてきて、いつしか水野も速水も狂っていた。些細なきっかけすら無しに据わった目を爛々と光らせていた水野の怖ろしさといったらなかった。その中に1人だけ「まともに」上手い大山がいる面白さよ。

 熱海殺人事件をジェットコースターに例えるならば、『改竄・熱海殺人事件』の「モンテカルロ・イリュージョン」はスペース・マウンテンだった。しかもいつもと走るコースが違う。急上昇のタイミングも急降下のタイミングも全く読めない。元の熱海を知っていれば知っているほどスリルと疲弊感が襲ってくるのかもしれない。熱海ファンは漏れなく体調を悪くしていたのでは。もちろん私もそのひとりだった。ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調でクライマックスが来ない熱海、あっていいんだな。

 「こんなご時世だから」とかでなく、この作品は記憶にも歴史にも残る公演になる予感がする。きっとこれからもっともっと木村伝兵衛は狂い咲いていくだろう。

 その面白さに万全の状態で観劇しても体調が悪くなること請け合いなので健康に自信のある方に限るが、この奇跡を目撃しに是非とも劇場に足を運んで欲しい。一般発売チケットも当日引き換え券も当日券もありますので。