感想文としては満点

演劇と言葉あそび

【本日の現場】Take Me Out 2018

2018年4月12日夜公演 @DDD AOYAMA CROSS THEATER

 目の前で10人程度の男がズボンや靴下やシャツを脱いだり、着たりを繰り返す。その合間に織り込まれる個々の信心、それに伴って思い描かれた偶像、あるいは差別(差別というものはつまりは人としてこうあるべきとする信心の規範から外れた人間を受け入れられない懐の狭さから起こるものだ)。ある瞬間に2つの気付きがあるまでは、ひたすらに地道で濃密な哲学の時間だった。シーズン中の試合進行の合間に様々な種類の傲慢さが交錯する。その進行の単調さが、この作品を濃密な時間であるように感じさせた。

 人とはかくあるべきであると理想を掲げる人間の信心は傲慢であるが、同時に他人のそれは当人以外の総てを侵食しながら傲慢ではない人間など存在しないと教えてくれる。人は誰しもが無自覚に傲慢であり、それを定期的に思い出しては自らを律することでのみ美しく生きられると私は考えている。哲学とは、己が美しく生きる為にいかに生きるべきかを見直すことだ。

 私は味方良介という役者から発せられる言葉の説得力を愛している。彼から発せられた言葉――彼が持つ声で、存在で発せられるもの――はまるで何もかもが正しいと思い込んでしまうほどの説得力を持つ。暴力的なほどの彼の正しさは、しかし彼の技術の裏付けでもある。彼の芝居をみる度に、板の上に立ち、戯曲を口にするために、演劇をやるために生まれてきたような人間だとつくづく感じる。キッピー・サンダーストームに彼を据えた事は、そんな彼の役者としての性質を逆手に取った効果的な手法だと感じた。彼の発する言葉の総てに信用性がなくなった瞬間――彼の持つ正しさの中に潜む傲慢さを暴かれたとき――まるで神様みたいな顔をしたキッピーが、人間に退化した。そのことに気付いた時、この演劇の、展開の調和が乱れたように思う。

 反対に、神様から人間へと“進化”したのがダレンだろう。序盤の、周囲の期待を一身に背負っても歯牙にも掛けないでいられるダレンの態度はまさに神様のようだった。あの堂々たる体躯であのような態度を取られたらどんな人間だって彼を神格化せざるを得ないはずだ。メイソンは私みたいな人間で、どのような点でそのように感じるかというとつまりはこういうところだ。あらゆるものに意味を持たせて期待したり、「君は私のようだ」と言って自分から切り離された物質について解った気になる点だ。傲慢で愛らしい。しかし、その傲慢さをダレンは許した。メイソン(とキッピー)が持つ傲慢さを。ダレンが神のような大らかさではなく、愛をもってして許したと知った瞬間、ダレンは私にとって、あの舞台上で誰よりも人間らしく愛おしい存在に変わった。あのいけすかない革のジャンパーを羽織った男をこんなに愛おしく感じた瞬間がこれまでにあっただろうか。

 結局、ダレンはデイビーの言う通り自分を曝け出し魅力的な人間として愛する人に愛されたのだ。最後に勝ったのは、やっぱりダレンだった!

 きっと観るたびに発見がある演劇なんだろうし、それをしてみたいとも思うのだけれど、なんとなく自分というものを崩されてしまいそうでこわい。そんな演劇でした。

 

“みんなダレンの事が好きだった。まるで、自分がダレンを作ったかのように。”