感想文としては満点

演劇と言葉あそび

エン*ゲキ#06 -即興音楽舞踏劇-『砂の城』

 即興音楽舞踏劇と題して舞台上にピアノを配置し、ピアニストによる即興の演奏と役者による歌と音楽で魅せる作品を上演するもの。

 砂に覆われた孤島・アミリアでテオ(中山優馬)とエウリデュケ(夏川アサ)は、エウリデュケの父・アッタロス(野島健児)や幼馴染のアデル(鈴木勝吾)らに祝福され結婚式を挙げた。エウリデュケはテオの胸の内をはかりかねているようではあったが、幸せに過ごしていた。

 同時期、王位継承者のゲルギオス(池田純矢)の元に宰相・バルツァ(升毅)から国王崩御とこれまで隠されていた兄の存在を伝えられる。王位継承権を守るためガルギオスはバルツァと共に策を練る。

 テオとエウリデュケが暮らす家に突然現れたバルツァは、奴隷の男・レオニダス(岐洲匠)を高額と買うと告げる。訳を聞くと、隠されていた王位継承者を探した結果、レオニダスこそがその人らしい。

 連れられた城で散々贅沢をしていたレオニダスだったが、突如造反の罪で城を追い出される。城を追われたレオニダスと偶然出会ったテオは羊小屋で匿うことに。「こんなことならばはじめから豊かな暮らしを知りたくはなかった」と傷つくレオニダスとやがて心を通わせていく。

 登場人物の生活が刻一刻と城の砂のように崩れていく様を描く。

 

 ストーリー自体は悪くないように思うのだが、ひとつひとつの事象に唐突な印象があったことは否めない。エウリデュケが感じていたテオへの違和感を強調させるとか、レオニダスとの交わりによって王とは何かを省みるゲルギオスの描写をもっと印象付けるとか、演出次第で活きるところが多かったように感じられて残念だった。

 舞台上に実際の砂があるとか、舞踊と即興音楽劇をやることとか、ショッキングなシーンを「そのまま」演じることとか、やりたいことを詰め込んだ作品だったが、もっと地味なところを地道にやっていくことも大事なんじゃないか。

 テオ自身が自分のことを理解出来ていないから仕方ないところはあるのかもしれないが、突然レオニダスとシンパシーを感じたり身体を重ねたりすることが理解出来ないと感じていたが、同時に発せられた「愛することだけがやめられない」すらも求められた姿を鏡のように体現してしまうテオの、レオニダスから求められた姿だったとしたら、テオはエウリデュケだけでなくレオニダスすらも本当は愛してはいないのかもしれない。

 破綻だけを紡いでいき、更なる破滅への予感を感じさせる終幕は、潔く『砂の城』をタイトルに据えた作品として終えられていて良かった。

『僕のヒーローアカデミア』を読む

 「ヒロアカ」こと『僕のヒーローアカデミア』。ヒロアカ史上最大の無料公開に乗じて全36巻を読んだ。最新刊まで寝不足になりながら一気に読んだのでどこまで読み込めているかは正直微妙なところだが、せっかくなので書く。というかこの作品を真っ当に批評するならアメコミの履修が不可避なのでかなり難しいと思う。

 個人的な話になるが、世の中の流れに乗ってみようと直前に『チェンソーマン』第一部を読んだのが良い読書体験に繋がったなと思っていて、『チェンソーマン』では登場人物の行動原理をおっぱい揉みたいだとかキスしたいだとかとにかくペラく描くことでこれ自体はストーリーや結果にさほど影響しないものとしているのに対して『僕のヒーローアカデミア』では登場人物の原点(本編の言葉を借りると“オリジン”)を執拗なまでに描くことで、行動原理を丹念に強調している。思わぬ形で対比が生まれ、“オリジン”こそが「ヒロアカ」のキモなのだと読むことが出来た。

 念のために言っておくが『チェンソーマン』の登場人物の行動原理はペラくていいしこれが作品を『チェンソーマン』たらしめているのではないかと思う。『チェンソーマン』について語る言葉はないが、藤原タツキが執心して描写していると指摘されている理不尽さ。例えば自己中心的な女、通り魔、災害といったようなものの前にあるものは出来るだけチンケなものの方が良いだろう。

 「ヒロアカ」は強大な敵と対峙して窮地に陥った時に、言うなれば精神論で押して無理やり勝ってしまう。本当に見事にずっと様々なキャラクターが無茶をしている。主人公は早々に腕に爆弾を抱えるし、次々にプロヒーローでさえも重傷を負い、時にはあっけなく殉職をする。ポップな絵柄の割に結構エグい。「ヒーローとは身を挺して奉仕活動をする存在だ」と徹底的に印象付けられる。

 そもそもが圧倒的な存在である平和の象徴・オールマイト引退以後の物語なので無茶することには必然性が生まれざるを得ないが、特に最終章に入るまでに勝敗を分けたのは気持ちの強さだったような気がする。これは敵も同じで、死柄木≒オール・フォー・ワンには怒りや憎しみが必要不可欠であることが示唆されている。

 ヒーローも敵(ヴィラン)も丹念にバックボーンを描いている印象から、読後すぐは「要は強大なバックボーンを持っている方が強い(=運命ガチャ)」で「夢バトル」ならぬ「オリジンバトル」の殴り合いなのだなあと感じていたのだが、特に轟家の問題の解決策、もっと言うと荼毘との対峙を含むエンデヴァーの内省に注目すると「原点とは決して覆らないもの」であるが故に「そこから先はやり直しが効くかもしれないもの」と捉えることができるのではと思い至った。

 誰かの過程こそが誰かの“オリジン”となる可能性もあるし、例えばトゥワイスはホークスに懸命に更生の道を示してもらいながらも敵(ヴィラン)としての道を進み続ける事を選んだし、「必ずしもやり直しが効く」とするものではない。とはいえ、デクがワン・フォー・オールの成り立ちから外れたところに活路を見出しつつあり、死柄木弔ともオール・フォー・ワンともつかない存在の中にある「志村」対するアプローチによってデクことワン・フォー・オールの掲げる“救けて勝つ”に相応しい「勝利」があるはずであるところからも、「志村」は“オリジン“に近しい姿(幼少期)を救けること、つまり“オリジン“から発露する感情やその後の行先は捉え方次第でどうにでも変えていけることを「ヒロアカ」は表現しようとしているのではないか。

 

 以下、特に「読み」のない感想

 それにしてもあの爆豪勝己があんなにも静かに燃ゆる男に成るとは誰が想像しただろうか。

 一見、ビクビクオドオドした“クソナード”の緑谷出久ではなく爆豪にこそ心の弱さがあるのだとする描き方の妙は凄い。堀越耕平はとにかくキャラクター造形が上手い。

 当人のたゆまぬ努力のおかげとはいえ自然と良き理解者として緑谷の隣に在る爆豪勝己が凄すぎて終盤は心の中でオカリナの名前を呼びまくってしまった*1

 逆に漫画そのものというか物語自体を描くことはそこまで上手いとは言い難く、文量も多いので読みづらい人もいるだろうなとは感じる。ただ、主人公がブツブツ喋るオタクという設定であることでモノローグの多さはクリアされているように思う。

 蛇腔病院突入時に体感突然出てくるミルコ、あまりにも初期っちゃん(初期の爆豪天上天下唯我独尊勝己さん)の匂いを感じて「作者がそんなに出したいならしょうがねぇな」と飲み込むほかなかった。

 元々17巻辺りまでは読んでたので天喰環とファットガム事務所が好きだったのだが(大阪贔屓なので)、A組・B組合同戦闘訓練での実直さに「心操人使カッコ良すぎるが……」しか言えなくなった。「敵(ヴィラン)向きの個性」であると言われながらも実は全然ヒネずにまっすぐヒーローへの憧れを持って人事を尽くせるところが良い。

それにしても30巻290話サブタイトル「ダビダンス」良すぎますね

 

*1:オカリナさんは緑谷出久くんと爆豪勝己くんの2人がお好きだそうです。兎にも角にもあの2人がお好きだそうです

「ここではないどこかへ」の野望として GORCH BROTHERS 2.1『MUDLARKS』

 イギリス・エセックスの工業地帯で共に馬鹿をやって育ってきた17歳の幼馴染3人ウエイン(永島敬三)、チャーリー(田中穂先)、ジェイク(玉置玲央)。

 テムズ川のそばに逃げてきたウエインとチャーリーは「成し遂げた」という何かに興奮している。やがて遅れて現れたジェイクは、その何かの一部始終を目撃したようで体調を崩している。「最高」だったはずの夜が、3人の人生を大きく変えていく。ロンドンに近いながらも貧困にあえぐ人間たちが多く暮らす街での物語。

 生活に余裕がない人ほど福祉、もっと言うと社会にアクセスしづらいというのはその通りなのだろうが、ジェイクは大学へ行くほどなのだからもう少しどうにか出来なかったものかと思ってしまった。

 泥に足を取られて身動きが取れないような思いになってしまう場所が人を追い込んでしまうのかもしれないし、その気持ちはなんとなくわかる。ただ、脚本家ヴィッキー・ドノヒューが実際にエセックス在住ということで、やはりもう少し彼らが希望を見出せる展開があっても良かったのではと思わざるを得ない。

 人物の設定は良くて、力の強い者にひどく怯えるチャーリー、1人になることが何より怖いウエイン、警察をしきりに気にするジェイクの描写は、端的にそれぞれの抱える問題を表していた。

 役者は全員素晴らしく、特に玉置玲央が良かった。

 気弱ながらも努力家で賢い少年の役は玉置玲央が演じるにしては「ふつう」で、重苦しそうなブラウンのジャケットの下に玉置玲央を演劇のバケモノ玉置玲央たらしめる肉体を密かに潜ませているように、ジェイクの内には野望や欲望や悲哀が秘められている。抑圧された人間の姿が見えた。茫然とした様子で金属探知機の話をするジェイクがただひたすらに悲しくて、あの芝居には痺れた。

 しかしこの3人を揃えたならもっと彼らが生き生きと舞台で躍動する芝居が観たいなと思ったし、(先に企画が立ち上げられたのはこちらだとは承知の上で)『空鉄砲』のその先にあるものが出来たのではないかと考えてしまった。企画の立ち上げとしてプロデビュー作の戯曲を用いて若者の物語を演る事自体は悪くはないと思う。……あのタイミングでとんでもない戯曲を書いてしまった中屋敷法仁が悪いのでは? 中屋敷さんのせいにして事務所制作の作品は作り続けていって欲しい。

 ザーザーとした川の音は、興奮して血が身体を巡る音と似ていると確かに思った。ゴミ溜めのような河原と濁った川の立てる音が彼らを狂わせたのだろうか。

人間の根源的な美しさこそが宇宙の謎 『蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』

蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』お疲れ様でした。全11公演を総て観劇したからといって妙な感慨深さがないのが不思議だった。舞台上の人達も私もやり切ったのだと思う。ただ謎でも何でもなく可愛いと思える、味方良介と石田明が心を通わせ生まれた愛おしい作品だった。フォーエバハッピーセット

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 幕開けと共にヤスが語る。「銀ちゃんが死んだ。僕は未だに信じられないでいる」。

 「銀ちゃんが逝く」というタイトルからもわかるように銀ちゃんは死ぬ。「お前が死ねば娘は助かる」という言葉を信じ、ルリ子の命を助けるために。

 最近『熱海殺人事件』の犯人を大山金太郎と書くのは「ネタバレ」であるから避けてくれとまったくもって的外れなイチャモンをつけられたが、つか作品の強さはそういうところとは全く別のところにあるのだとこの作品を観ていてつくづくと感じた。強い構造の中に物語が流れているのだと考えると、結果論に過ぎない事象はむしろ瑣末なことだと思う。

 語りの後、監督のスタートの合図と共に時間は逆行し、倉岡銀四郎演じる土方歳三中村屋喜三郎演じる坂本龍馬の決闘シーンの撮影が始まる。作中で坂本龍馬は「若いもんを先に立たせて自分だけ生き残ろうって魂胆だろう」と土方歳三を責め立てる。銀ちゃんのその後の行動を想起させるような状況と台詞だ。作品の中での出来事が現実となることもあるし、現実もまた作品に影響を与える。演者の性格や生き様を強く写し出すつかこうへい作品においてはままあることであることを暗示している。

 まともに「撮影」を行う芝居は冒頭の暗示的なシーンのみで、その後は監督のスタートの合図やフィルムのキリキリ回る音を執拗に使用しながら、撮影というテイで役者がコミュニケーションを交わす。時にはふいに本音が出たり、素で話している時よりよっぽど素直な感情を吐露する。もしこれが映像作品であればかなりおかしな風景だが、これはあくまでも演劇なのだ。「演劇」のことを演劇で語るために、つかこうへいは「映画の撮影」という技法を使った。なんとも捻くれ者だとも思うが、それでも役者とスタァの強さを信じる気持ちを隠さないから健気な置き換えである。

 人は嘘をつく。役者はもっと嘘をつく。必死に「虚像」を守るために。

 そんな役者が、役者だからこそ、演じている時は本音を語る。心の扉を開いてしまう。物語の中でだけ、人は素直でいられるのだ。物語が強ければ強いほど、役者はその構造に身を委ねて内面を開放する。むしろ、これができなければつか作品は面白くならない。「蒲田行進曲」にはその作品としての強さをひしひしと感じた。

 役者が汗をダラダラ流して鼻水垂らしているのもお構いなしに「現実」と「作品」の境界線がわからなくなるほどに己を曝け出している姿から感じられるのはただ一つ、人間の美しさであるように思う。

 今回、味方良介がつか作品に愛される理由は実はここにあるような気がした。圧倒的な喉の強さ。早い台詞を超越する発語力。動じなさ。どれも素晴らしいが、とにかく倉岡銀四郎を演じる味方良介は美しいのだ。

 銀ちゃんが特に美しかったのが、階段落ちの前に幼い頃見た河原の石のことを語る場面。2年前の朗読劇では1幕終わりのヤスが階段落ちをするシーン「上がって来いヤス」が素晴らしかったが、今年の銀ちゃんは銀ちゃんとヤスの関係性の中にあるものではなくもっとスケールの大きい話を語る時に殊更美しかった。これには役者としてより大きくなった味方良介の度量の大きさを感じた。

 倉岡銀四郎の生まれを哀むことで、人間の「生」すらも憂う。味方良介のその姿はただただ純然たる人間の美しさを放っていた。単に自身の美しさに集約せずに人間の美しさを体現しているのだと心の底から思える。美しくて、愛おしくて、感動する。「人間ってこんなに美しかったんだ」と思えてくる。「人間」すらも背負えるから彼は紀伊國屋ホールのスタァさんを張っていられたのだと今更ながらに気付いた。

 そんなスタァさんが倒れた時。ただの人間に還っていくようなそんな感覚があった。階段落ちをやり遂げ倒れ込んだ倉岡銀四郎のゼーハーと喘いでいるその今を精一杯に生きる役者の今の今まで屈強で無敵だったはずの身体を見ていると愛おしさにどうにも堪らなくなって駆け寄って抱きしめたくなったものだった。

 千穐楽ではケンさえも銀ちゃんは抱きしめていた。ただの人として最後の時を生きたのかもしれない。

 

 戯曲への理解力に秀でており、客席に伝える力が圧倒的に強い石田明が客席を代表するかのように全力で銀ちゃんを愛するヤスとして味方良介の脇で支える。執拗にスタァ像を語りながら強い姿を見せ続ける中村喜三郎の葛藤を見事に演じ切った細貝圭が作品の縦軸を強固なものにしていて、それを作品として切り取る監督久保田創は長年つか作品に携わり続けた説得力を武器に作品をより「本物」へと仕上げる。カメラマンタカラのスタァの姿を切り取るパワフルさと楽しそうな姿勢は活動屋の意地や醍醐味を感じる。何より佐久本宝が役名もない役に出演しているのだ。どうして銀ちゃんがこんなに愛されるのか」をこれほどまでに見せつけられる人選は無いだろう。そして漲り続ける底なしの体力を持ち小夏やカメラマンタカラを励まし奮い立たせる若山先生こと高橋龍輝は物語に一気に華やかで広大な物語にした。

 私が見てきた紀伊國屋ホールのすべてと、それ以上が目の前に繰り広げられていて、こんなに良い公演はないと思った。お亡くなりになる前には名前も知らなかった偉大な演出家もきっと喜んでいるだろう。もしそうでなかったら、私が文句つけてやる。それほどまでに良い公演に立ち会えたと思っています。

 はい、お疲れさん!