感想文としては満点

演劇と言葉あそび

うつくしさのなかにある哀しさの気づき

2018年8月25日夜公演 舞台「野球」飛行機雲のホームラン@シアタードラマシティ

 現在、過去、未来。時間も場所も回想として「とある試合」の合間に折り込まれ、始めのうちは時系列が読めないまま、物語は進んでいく。それを眺めていると、この試合の持つ切実さが、意味が、次第に濃く鮮やかに色付くように明らかになってゆく。登場人物のひとりひとりがやがて鼓動を始め、体躯が、感情が躍動し、劇場全体を駆け、その息遣いが感じられるようになる。物理的にも、感覚的にもそれを感じた。

 美しくなんてない、彼らの青春は。そうさせたものを憎らしく思う。それでも、鮮やかで奇跡的で儚くて、出来すぎた物語だった。それを「美しい」と形容することもきっと出来るのだろう。

 演劇に必要なのは大どんでん返しではない。物語が進むにつれて積み重ねられた事実だ。それによってひたりひたりとその予感が迫り、大きな転換を迎える。演劇として、演劇に対して「真摯」な作品というのはそういう作品だと思う。この舞台「野球」飛行機雲のホームランは正にそういう作品だった。わたしはこういう作品こそ多くの人に観て、愛されていて欲しい。それがわたしの、ひとつの“夢”だ。演劇はわたしの夢だ。

 死がそこに待っているからこそ生を強く感じることが出来るのかもしれない。アフタートークの支離滅裂で文脈が読めないほど取り留めなく永田聖一朗の口から紡がれた「舞台は終わりがあるからいいのかもしれないと思っている」という言葉は、しかし、この演劇の本質にかなり近い位置にある言葉でもあったように思える。

 彼は本当に不思議な役者だ。この物語は安西慎太郎演じる穂積均と多和田秀弥演じる唐澤静の友情物語という側面が大きいが、バッテリーである静に昭治が「勝ちたいか、自分らしくやりたいか、どっちだ。」と問いかけた時の静を演じる永田くんの演技は、短いとはいえバッテリーとして組んできた年月と信頼関係を感じさせ、その表れた存在感には目を見張るものがあった。無邪気で何も考えていないように見えて、ここぞという時には必ず人を惹きつける、すこぶる演技が上手い役者だなあと改めて感じた。そのどこまでもアンバランスなところが彼の魅力だ。

 この物語は最終的にあるひとつの目的へと向かっていくのだが、「総ては唐澤静のため」を納得させるパワーを持つのが多和田秀弥という役者の魅力だなと感じる。きっと、悲しいかな、哀しく切実で重すぎる思いをも受け止めてこそスターだし、彼にそのようなスター性を見出すことは彼を知る人物ならば然るべしだ。

 美しいまでによく出来た物語で、それがなおこの物語を哀しくさせる。いま、この時代に、この物語に、演劇に、役者たちに、出会えたことに感謝しか出来ない。