感想文としては満点

演劇と言葉あそび

血の繋がりはどこまで

2015年10月27日投稿 2015年7月観劇 「ファウスト〜最後の聖戦〜」 @東京芸術劇場プレイハウス,森ノ宮ピロティホール

 私が観たのは7月11日・7月25日・26日のそれぞれ2公演、全6公演。自分が出来る限り観た。私にとってオフィスト・フェレスは、五関晃一を好きになるきっかけになったキャラクターだったから、作品がどんな出来であろうともう二度と会えないと思い、この目に焼き付けていたかったので。そもそも私はこのミュージカルを批判したが、それはあくまで“創作をする”ということに対して真摯でない製作陣に対してであったので、「ファウスト」自体をそこまで憎んでいたかというと、そうでもない。

 昨年も観劇しているはずなのだが、作品そのものに対する印象は薄く、記憶の端にも置かれていなかったので、作品としての「ファウスト」自体には思い入れがないから、初めはフラットな状態で観ることが出来た。作品そのものに関しては、簡潔に言うならば、最低の出来だった。テーマに伴うそれぞれの事象が存在する意味は出来ても、登場人物の心情がその事象に至る起因になっていないであろうと思うことが多かったからだ。答えは合ってるけど、途中式はまるで違う、あるいはすっ飛ばして解を当てずっぽうに書いているような、プロセスがスカスカの台本だった。7月の記事でも書いたが演者のクオリティは最高で、それなのに制作側の本気が感じられなくて、だからこの作品に対して終始一貫して特別な感情は生まれないのだろうと思っていた。しかし、全公演を終えてみるとそういうわけにもいかなくなっていた。とはいっても、作品としてのファウストに対する思いというよりも、演者五関晃一への思いが生まれたなという感じ。
 この舞台のラストシーンは、魂が解き放たれ自由になったファウストが暗闇の中、目を覚ましラナンキュラスの花を手に「もし一つだけ夢が叶うなら〜」と歌い始める。そこへオフィストが登場し「もしもう一度やり直せるなら〜」と続けて歌う。やがて全ての出演者が舞台上へ現れ「ひとは誰もがひとりでうまれてくる」「いつか必ず終わる それは誰にも変えられない」と歌う、というもの。気付いたのは最終日の昼公演だった気がする、あるいはその公演からのことだったのか。五関くんはこの歌をこの上なく幸せだと言わんとするような顔で歌うのだ。その満ち足りた顔で歌う彼を見て(その姿は人生に満足したオフィストの姿だったわけですが)全てが浄化されるような、解き放たれたような感じがしてもう何も言うまい、と思った次第です。久々に真にアイドルの尊さに触れた気がした。
 「ファウスト」で一番好きだったシーンはオフィストとガブリエルが刺し違える直前のシーン、メフィストから、ガブリエルとひとつの魂に戻ることの許しを得たオフィストはメフィストに頭を下げて礼を言う。頭を上げたオフィストが小さく、それでもゆっくりと深呼吸をする。その仕草がびっくりするほど美しくて、更にその仕草の後の表情が更に美しくて、好きだった。あのシーンは、メフィスト・フェレスとの乖離を表していたのではないかと思う。ひとつ小さく呼吸をした瞬間、ひとつの魂として存在するものとなり、ガブリエルと刺し違え、世界を浄化出来るようになった。明らかに表情に変化があったし、話の辻褄も合う。死ぬために「親離れ」するというのは、なんだか、切ないけれど、血を分けたもの(悪魔に血があるかは別として)とは、死ぬことでしか関係を断つことが出来ないのかもしれないなと思う。ファウストとマリアは死んでなお繋がっていたので、この辺りは私の憶測ですが。あるいは、ファウストとマリアが死んでなお繋がっていることが出来たならば、オフィストがまたどこかでメフィストと出会うこともあるのかもしれない。血を共有するのではなく、分けたからこそ。メフィスト、寂しいだろうしそうなって欲しい…(と思うくらいの人並みの優しさは持ち合わせているんですよ、私だって)。
 最後に「血」繋がりでひとつ、五関くんの血振りは世界一カッコいい。