感想文としては満点

演劇と言葉あそび

“美しさ”を追い求めて

2016年5月28日 「それいゆ」@梅田芸術劇場シアタードラマシティ

 優馬くんの芝居といえば私は昨年観劇した「ドリアン・グレイの肖像」がたいへん素晴らしかったせいで、これを思い出さざるを得ないわけだけれど、「ドリアン・グレイの肖像」がいつか握られた祖母の皺々の手を思い出すような「死」の禍々しさを描いた作品だったのに対して、「それいゆ」は「生」の禍々しさを描いたものだった。生きている限り人は理想を追い求めなければならない、その事への恐怖を感じた。しかし私達は考え続けなければならない。何故なら「美しさ」は世界を変えるから。

 “本質的な美”を追い求めた中原淳一の生涯を描いた作品だから、舞台美術も洗練された美しいものになっていて欲しかったなと思わなくはないが、窓と鏡とショウケースを兼ねた装置のアイデアはとても面白かった。舞台開始前から観客を写すように舞台上に鎮座していた鏡は、世を写す窓へと変化し、舞台中盤では人形を飾るショウケースへと変わる。鏡と人形は中原にとって同義であり、どちらも“じぶん”そのものであったと言える。それはショウケースに飾られる人形のように舞台上に登場した中原の姿を論拠のひとつとして挙げ主張することが出来る。あるいは登場人物の美しさを映えさせるものだったのかもしれない。優馬くんは確かに見目麗しいけれど、これは見た目がどうというものではなく、不器用なりに、すべての登場人物が自分の思うままの世界を追い求めており心地よかった。

 舞子がもんぺを履いている姿を見た時も、「もんぺ姿の少女を描け」と強要された時も、中原は「もんぺそのものが悪いわけではない」と何度も主張し、その機能性を評価さえしていた。「もんぺを履くことを強要していることこそが良くないことであり美しくないことだ」と。中原淳一の何事に対しても「かくあるべき」がない軽やかさは美しく、憧れる。一番信じるものがきっと「美しさ」だからあの軽やかさなんだろう。完全な造形美を求めていながらも美しさが不変ではないことを誰より知っている彼の揺らぎは見ていて痛い。しかし美しさは普遍であることも彼は知っている。それこそが“本質的な美しさ”であり、その存在を知っていたからこそしなやかながらも頑固に生きられたのだろう。自分の信念を曲げようとする者には本気で怒る姿もまた格好良かった。

 ラストをどう迎えるのか気になっていたのだけれど、ベタであれ中原の目標が達成されて良かったと思った。人形は中原の鏡であるから、中原の人生こそが“完全な造形美”であるならば、彼が造った人形もまた“完全な造形美”であるに違いないのだ。

 中原淳一のように、信じるものがない者を、私はきらいでいたい。それは何も宗教でなくてもよい。必要なのは信念だ。ただ、信念を貫き通すことが難しいこともよく知っている。誰かの信念が自分の信念を曲げることもあるし、逆もまた然りであるからだ。諦めないで、曲げないでいるのってほんとうに難しい。しかし、だからこそ考え続けなくてはならないのだ。考えることでしか美しさには近付けない。それは不変の事実だ。そして私達はきっと美しさを追い求めなければならない。中原の言う通り、美しさは世界を変えるからだ。傾国 傾城なんかはよく謳われるものだが、美しさは世界を平和にし得るかもしれないと、私はこの舞台を観て、そう思うようになった。