感想文としては満点

演劇と言葉あそび

絵画じみた地図を描く手を引き寄せて

 2018年6月18日 舞台『刀剣乱舞』結いの目の不如帰 @京都劇場/ライブビューイング

 私はDVDを含めても舞台『刀剣乱舞』シリーズは「暁の独眼竜」、TRUMPシリーズはDVDで「LILIUM」と「グランギニョル」「マリーゴールド」しか観ていないのだが、一部しか観ていないが故にそのどちらも同じような構図に見える。末満さんは大きな因果の中に小さな関係性を多く構築することが上手い。観客は広い広い森の地図を迷いながらも地道に埋めていく。眼前の地図がいつのまにかに大きく広がっていた事に観客は驚くのみだ。公演を観た後に改めて眺めたメインビジュアルのなんと秀逸なことよ。

 「暁の独眼竜」を観に行った理由は2番目に好きなキャラクターである太鼓鐘貞宗(1番は厚藤四郎)を橋本祥平くんが演じたから。今回は大包平加藤将さんが演じたからだった。歴史にも「刀剣乱舞」にも造詣が深くないために「暁の独眼竜」はどこか入り込めないところがあったため、ストーリーとしては今回の本丸内でのいざこざが発生するループものとして楽しめる「結いの目の不如帰」の方がより面白く感じた。

 役者の経験値が殺陣に如実に表れていたようにも感じて残酷だなと感じた。鈴木拡樹さんの殺陣はとんでもなく上手い。私は将さんのことが大好きだからその様を見ていて歯痒くもあった。しかし同時に伸びしろしかない将さんを眩しくも感じた。大包平が天下五剣“ではない”刀として足掻く姿は、将さんが役者として足掻く姿に重なる。そういう意味では良いキャスティングであったし、彼自身にも良い変化が多くあったようでファンとして嬉しく思う。次作で彼の演技が良くなっていたということに関しては、そちらの作品の感想にて書こうと思う。

 この作品についてわたしが持つ情報はきっと本当に少なくて、取り零した感情や情報は計り知れないほど膨大なんだろう。彼らがどんな風に過ごして、感じて、“終わり”に向かっていったのかわたしは知らない。知らないから、ただこの物語のうつくしい構図に見惚れるしかなかった。哀しさも悲しさも遠くから見るぶんには、うつくしさとしか感じられないことに改めて気付かされた。

 

 ひとまず、お疲れ様でした。

うつくしさのなかにある哀しさの気づき

2018年8月25日夜公演 舞台「野球」飛行機雲のホームラン@シアタードラマシティ

 現在、過去、未来。時間も場所も回想として「とある試合」の合間に折り込まれ、始めのうちは時系列が読めないまま、物語は進んでいく。それを眺めていると、この試合の持つ切実さが、意味が、次第に濃く鮮やかに色付くように明らかになってゆく。登場人物のひとりひとりがやがて鼓動を始め、体躯が、感情が躍動し、劇場全体を駆け、その息遣いが感じられるようになる。物理的にも、感覚的にもそれを感じた。

 美しくなんてない、彼らの青春は。そうさせたものを憎らしく思う。それでも、鮮やかで奇跡的で儚くて、出来すぎた物語だった。それを「美しい」と形容することもきっと出来るのだろう。

 演劇に必要なのは大どんでん返しではない。物語が進むにつれて積み重ねられた事実だ。それによってひたりひたりとその予感が迫り、大きな転換を迎える。演劇として、演劇に対して「真摯」な作品というのはそういう作品だと思う。この舞台「野球」飛行機雲のホームランは正にそういう作品だった。わたしはこういう作品こそ多くの人に観て、愛されていて欲しい。それがわたしの、ひとつの“夢”だ。演劇はわたしの夢だ。

 死がそこに待っているからこそ生を強く感じることが出来るのかもしれない。アフタートークの支離滅裂で文脈が読めないほど取り留めなく永田聖一朗の口から紡がれた「舞台は終わりがあるからいいのかもしれないと思っている」という言葉は、しかし、この演劇の本質にかなり近い位置にある言葉でもあったように思える。

 彼は本当に不思議な役者だ。この物語は安西慎太郎演じる穂積均と多和田秀弥演じる唐澤静の友情物語という側面が大きいが、バッテリーである静に昭治が「勝ちたいか、自分らしくやりたいか、どっちだ。」と問いかけた時の静を演じる永田くんの演技は、短いとはいえバッテリーとして組んできた年月と信頼関係を感じさせ、その表れた存在感には目を見張るものがあった。無邪気で何も考えていないように見えて、ここぞという時には必ず人を惹きつける、すこぶる演技が上手い役者だなあと改めて感じた。そのどこまでもアンバランスなところが彼の魅力だ。

 この物語は最終的にあるひとつの目的へと向かっていくのだが、「総ては唐澤静のため」を納得させるパワーを持つのが多和田秀弥という役者の魅力だなと感じる。きっと、悲しいかな、哀しく切実で重すぎる思いをも受け止めてこそスターだし、彼にそのようなスター性を見出すことは彼を知る人物ならば然るべしだ。

 美しいまでによく出来た物語で、それがなおこの物語を哀しくさせる。いま、この時代に、この物語に、演劇に、役者たちに、出会えたことに感謝しか出来ない。

エンターテイメントに絶望を感じたくないな

 「八王子ゾンビーズ」を観劇した。なんて不愉快な舞台なのだろうと思った。この平成も最後になろうという年に生まれていい新作演劇ではなかった。

 ストーリーのつまらなさも、客席で響くタンバリンの音も、スタッフが客席でタンバリンを売り歩いている様も、前説も、主演の声が大きいだけで響かない演技も全部不快で仕方なかった。更には、作中に出てくる更生した元ヤン集団“八王子ゾンビーズ”が「更生した」と言いながらも素直に人に謝れない人たちで好感が持てないこと、一刃に対する掘り下げが一切されず彼がただ人を斬りたいだけの狂人として存在していたことなど不可解な点も多い。しかし、これらのことはどうでもよくなるくらいに不愉快な表現が多かった。早乙女友貴さんの大胆な殺陣も、魅力的なダンスも、牧島くんのキラキラした笑顔も全部台無しだ。一番心に響いた、楓くんのジンとくる心の優しさもだ。鈴木おさむさんにはどうか人を貶めるような「ネタ」で笑いを取って金を稼いでいい時代じゃないことに気付いて欲しい。

 まず最初に気になったことは隅田美保さん演じる「海」の扱い。主に、所謂「ブスいじり」だ。何度も人の容姿を「ゾンビのよう」と彼女の容姿を“イケメン”俳優の口を借りて何度もイジっていた。なんて卑怯な行為なんだろう。その他にも彼女のブラジャーの話題を何度も持ち出し「おばさんのブラジャーナメんじゃないわよ!」と言わせ、挙げ句の果てにはそんなキャラクターではなかったのに突然八王子ゾンビーズに対して「イケメン達に性的なイタズラをするイヤなおばさん」をも演じさせる。ひどい。テレビでよく見た、ブスとイジられても怒らず嗤われることを許し、イケメンにセクハラをする嫌な役を背負わさせられるステレオタイプの「女芸人」そのものではないか。周囲にゾンビ呼ばわりされる海(マリン)に何度も「ゾンビじゃなくてマリン!」という台詞を言わせ、最後の最後に正しく「マリン」と呼ばれたことを喜ぶ海の姿は見ていて痛々しく思った。最初は頭を下げることが出来なかった八王子ゾンビーズのリーダーが頭を下げて主人公にお願いするシーンも然りだが、最初は出来なかったことのレベルが低すぎる。これで何かを乗り越えた感動だと錯覚させようなんて、観客を馬鹿にしすぎではないか。「不良が犬を拾っていたからいい人に見えた」というお決まりのパターンのもっと程度が低いバージョンだ。RIKACOさんが演じる市長の「元グラドル、元学園祭クイーン、離婚して今は政治家」という設定もかなり嫌な感じだと思う。

 そして小ネタの話題チョイス。時事ネタと言っていいのかわからないほど演劇のナマ感を理解していない話題のセレクトである日大タックル問題をわざわざ取り上げ、やることといえばタックル加害者学生の会見を茶化しコント化して更に「好感度上がったね〜」と付け加える。こんなに意味もなくただ不愉快になるだけのシーンを脚本に入れるなんて、脚本家はどれだけ愚鈍なのか。怪我をした被害者が実在する事件の、パワハラに苦しんだ加害者学生の会見をイジるなんて、あの会見を見て「この学生は世間からの好感度が上がったな〜」としか感じていないという表明に他ならないように感じる。恥だと思わないんだろうか。思わないからこんな風に茶化せるんだろうな。どうしても時事ネタを取り上げたいというならば、今なら、日本医科大の女性差別問題や日本ボクシング連盟あたりが妥当のように感じるし、それに対する批評があって然るべしだと思う。単にニュースに出てきた人物を晒し者にして茶化せばいいというものではない。知性のかけらも感じない。

 この作品にはマイノリティの哀しさがない。それを描く力量もなく、ただただ「マイノリティ」と思われるキャラクター設定を書き連ねて問答無用ですべて斬りつけ、痛めつけることばかり。観ていて悲しい気持ちになった。人を貶めないと「笑い」を取れないようなら才能がないからコメディなんて、エンターテイメントなんてやるべきではない。「女性をターゲットにした舞台で女性を馬鹿にするような表現をするな」という論調の意見も見かけたがもはやそういう問題ではないと私は考えている。単純に時流に合わない。「現代」の八王子を舞台にした「現代」に生まれた新作演劇の内容としては全くそぐわない。誰かをむやみやたらに傷つけて苦しむ様子を笑って快感を得るなんて、それこそ作中に出てくる希望寺の住職や一刃と同じじゃないか。

 それでも「これが俺のやり方だ」「キモいオタクがなんか言ってるな」と言うならばどうぞテレビの世界に帰って存分にその才能を発揮していただきたい。テレビは不愉快に思えばチャンネルを変えればいいけれど、客に1万円近い金を払わせて集めた閉鎖空間で同じ事が通用するとお思いですか。

 

 

 これは前述の内容とは少し性質の異なる不満に思ったことだが、会場に入る前も、入った後も、上演中もビデオカメラを向けられ、ストレスを感じた。前説中には扉の前から様子を観察するネルケプランニングの会長の姿も見かけた。私たちは、「応援上演」という実験に付き合わされただけの実験台だったのではないか?という考えがよぎった瞬間だった。時代遅れの「笑い」ばかりの脚本を書いておきながら最近流行っていると聞きかじった「新しいことに挑戦」していると自負しニタニタと笑うオジサンが脳裏に浮かぶ。こんなに楽しめない興行を制作しておいて勘違いも甚だしい。

 

 

 ネルケプランニングには今まで沢山の楽しい嬉しいという感情を貰ったから、これからもそうであって欲しい。こんな差別的な表現を多用する脚本をもって「人を楽しませた」と勘違いする脚本家・演出家を許す企業であって欲しくないと心から願う。せめて、エンターテイメントの世界で絶望は感じたくないなあ。

 

MANKAI STAGE『A3!』~SPRING & SUMMER 2018~所感

 碓氷真澄としてステージ上に現れた時、ジュリアスとして声を発した瞬間、私の目に狂いはなかったなと思った。彼という役者を好きになった時のような、魂が震えるような瞬間をこれからも感じたい。感じさせてくれた!やっぱり天才の役者!テニミュを卒業してすぐに牧島くんが超満員の舞台に立って、素敵なパフォーマンスを披露して、沢山の人をハッピーにしている事が誇らしい!

  エーステそのものに対しての現時点での印象は、良くも悪くも乙女ゲームの舞台化だったということ。咲也が「A3!」というストーリーの主人公とも取れるけれども、主人公が監督(プレイヤー)である以上他のキャラクターに優劣は存在しないためにどのキャラクターにも平等に活躍の機会が与えられていて結果的に内容が薄く感じる。せめて春も夏も別公演にして、1幕でメインストーリー、2幕で劇中劇をじっくりと公演して欲しかった。

 とはいえ、ソロ曲のあるメンバー、ないメンバーはあり、上手い役者には活躍の機会が与えられて然るべきという考えなので本田礼生さん演じる三角の登場シーンに大きくリソースが割かれていたのは嬉しかったし、楽しかった。とても好きなシーン。彼は演技もダンスも上手くてグッとこの公演の水準を高めてくれている存在であり、それが夏組における斑鳩三角の立ち位置とも重なるなと思う。

 舞台全体の雰囲気はずっと楽しい。笑いに走りがちだけど、大体は小ネタの範囲内に収まっているし、原作と同じ空気感を纏っていたなと思う。

 真澄推しの原作ファンとして嬉しかった点は「ロミオとジュリアス」のエーステオリジナル公演曲が「僕らの絆」と繋げられていた点。歌詞先かなと思われるリズムの悪いオリジナル公演曲を聴いていた時はこの先どうなるのかと困惑していたけれども、“一緒に旅立つのさ〜”と咲也と真澄が歌い始めた時はゾクっとした。 

 冒頭のビロードウェイの説明を劇中劇の「長々とした説明台詞」として台本に組み込んでいたのは上手いな思った。

 千秋楽公演は正直感動した。感動したけれども、ズルいなとも思う。こんなのが毎度毎度まかり通るようでは、コンテンツとして成り立っていかないのではと考えざるを得ない。確かに面白い試みだと思う。「A3!」のメインストーリー自体も、ストーリーとして『千秋楽に客席を満席にする』ことを目標としていて、つまりひとつのゴールとして設定されているのは「千秋楽」だ。その上で「エーステ」でも『これまでの公演を踏まえてストーリーが一部千秋楽仕様に改変された千秋楽公演』をゴールに設定とした構成にすることによって「A3!」と「エーステ」のゴールが擬似的に同じ“その日”になるのは面白いと思うのだけれど、同じものを何度も何度も生身の人間が繰り返すからこそ生まれる差異の面白さを意図的に作り出すことはズルいように思える。千秋楽は特別だけど、それはあくまでやってる人間と通ってる人間にとって特別な公演なだけであって、偶然初めて千秋楽公演を観る人間にとってはいくつかあるうちのただひとつの公演に過ぎないとわたしは思うし、そうであって欲しい。どの公演であっても、それは特別な一公演であるべき。「一度きり」のハプニングを意図的に生み出すことは、「演劇的」な要素を人工的に生み出す面白い試みだけれど演劇ファンとしてノーと言いたいし、極論を言えばこれが何度もまかり通るようでは千秋楽以外が埋まらなくなる。エーステが埋まらないなんてことはないのかもしれないし、配信やDVD収録など媒体は多く用意されているけれど、舞台は基本生で観るものだから。演劇に対する愛がないなと正直残念に思う。

 凱旋からまた色々とガラッと変わりそうで、楽しみなような、憂鬱なような。

 おわり。