感想文としては満点

演劇と言葉あそび

エンターテイメントに絶望を感じたくないな

 「八王子ゾンビーズ」を観劇した。なんて不愉快な舞台なのだろうと思った。この平成も最後になろうという年に生まれていい新作演劇ではなかった。

 ストーリーのつまらなさも、客席で響くタンバリンの音も、スタッフが客席でタンバリンを売り歩いている様も、前説も、主演の声が大きいだけで響かない演技も全部不快で仕方なかった。更には、作中に出てくる更生した元ヤン集団“八王子ゾンビーズ”が「更生した」と言いながらも素直に人に謝れない人たちで好感が持てないこと、一刃に対する掘り下げが一切されず彼がただ人を斬りたいだけの狂人として存在していたことなど不可解な点も多い。しかし、これらのことはどうでもよくなるくらいに不愉快な表現が多かった。早乙女友貴さんの大胆な殺陣も、魅力的なダンスも、牧島くんのキラキラした笑顔も全部台無しだ。一番心に響いた、楓くんのジンとくる心の優しさもだ。鈴木おさむさんにはどうか人を貶めるような「ネタ」で笑いを取って金を稼いでいい時代じゃないことに気付いて欲しい。

 まず最初に気になったことは隅田美保さん演じる「海」の扱い。主に、所謂「ブスいじり」だ。何度も人の容姿を「ゾンビのよう」と彼女の容姿を“イケメン”俳優の口を借りて何度もイジっていた。なんて卑怯な行為なんだろう。その他にも彼女のブラジャーの話題を何度も持ち出し「おばさんのブラジャーナメんじゃないわよ!」と言わせ、挙げ句の果てにはそんなキャラクターではなかったのに突然八王子ゾンビーズに対して「イケメン達に性的なイタズラをするイヤなおばさん」をも演じさせる。ひどい。テレビでよく見た、ブスとイジられても怒らず嗤われることを許し、イケメンにセクハラをする嫌な役を背負わさせられるステレオタイプの「女芸人」そのものではないか。周囲にゾンビ呼ばわりされる海(マリン)に何度も「ゾンビじゃなくてマリン!」という台詞を言わせ、最後の最後に正しく「マリン」と呼ばれたことを喜ぶ海の姿は見ていて痛々しく思った。最初は頭を下げることが出来なかった八王子ゾンビーズのリーダーが頭を下げて主人公にお願いするシーンも然りだが、最初は出来なかったことのレベルが低すぎる。これで何かを乗り越えた感動だと錯覚させようなんて、観客を馬鹿にしすぎではないか。「不良が犬を拾っていたからいい人に見えた」というお決まりのパターンのもっと程度が低いバージョンだ。RIKACOさんが演じる市長の「元グラドル、元学園祭クイーン、離婚して今は政治家」という設定もかなり嫌な感じだと思う。

 そして小ネタの話題チョイス。時事ネタと言っていいのかわからないほど演劇のナマ感を理解していない話題のセレクトである日大タックル問題をわざわざ取り上げ、やることといえばタックル加害者学生の会見を茶化しコント化して更に「好感度上がったね〜」と付け加える。こんなに意味もなくただ不愉快になるだけのシーンを脚本に入れるなんて、脚本家はどれだけ愚鈍なのか。怪我をした被害者が実在する事件の、パワハラに苦しんだ加害者学生の会見をイジるなんて、あの会見を見て「この学生は世間からの好感度が上がったな〜」としか感じていないという表明に他ならないように感じる。恥だと思わないんだろうか。思わないからこんな風に茶化せるんだろうな。どうしても時事ネタを取り上げたいというならば、今なら、日本医科大の女性差別問題や日本ボクシング連盟あたりが妥当のように感じるし、それに対する批評があって然るべしだと思う。単にニュースに出てきた人物を晒し者にして茶化せばいいというものではない。知性のかけらも感じない。

 この作品にはマイノリティの哀しさがない。それを描く力量もなく、ただただ「マイノリティ」と思われるキャラクター設定を書き連ねて問答無用ですべて斬りつけ、痛めつけることばかり。観ていて悲しい気持ちになった。人を貶めないと「笑い」を取れないようなら才能がないからコメディなんて、エンターテイメントなんてやるべきではない。「女性をターゲットにした舞台で女性を馬鹿にするような表現をするな」という論調の意見も見かけたがもはやそういう問題ではないと私は考えている。単純に時流に合わない。「現代」の八王子を舞台にした「現代」に生まれた新作演劇の内容としては全くそぐわない。誰かをむやみやたらに傷つけて苦しむ様子を笑って快感を得るなんて、それこそ作中に出てくる希望寺の住職や一刃と同じじゃないか。

 それでも「これが俺のやり方だ」「キモいオタクがなんか言ってるな」と言うならばどうぞテレビの世界に帰って存分にその才能を発揮していただきたい。テレビは不愉快に思えばチャンネルを変えればいいけれど、客に1万円近い金を払わせて集めた閉鎖空間で同じ事が通用するとお思いですか。

 

 

 これは前述の内容とは少し性質の異なる不満に思ったことだが、会場に入る前も、入った後も、上演中もビデオカメラを向けられ、ストレスを感じた。前説中には扉の前から様子を観察するネルケプランニングの会長の姿も見かけた。私たちは、「応援上演」という実験に付き合わされただけの実験台だったのではないか?という考えがよぎった瞬間だった。時代遅れの「笑い」ばかりの脚本を書いておきながら最近流行っていると聞きかじった「新しいことに挑戦」していると自負しニタニタと笑うオジサンが脳裏に浮かぶ。こんなに楽しめない興行を制作しておいて勘違いも甚だしい。

 

 

 ネルケプランニングには今まで沢山の楽しい嬉しいという感情を貰ったから、これからもそうであって欲しい。こんな差別的な表現を多用する脚本をもって「人を楽しませた」と勘違いする脚本家・演出家を許す企業であって欲しくないと心から願う。せめて、エンターテイメントの世界で絶望は感じたくないなあ。

 

MANKAI STAGE『A3!』~SPRING & SUMMER 2018~所感

 碓氷真澄としてステージ上に現れた時、ジュリアスとして声を発した瞬間、私の目に狂いはなかったなと思った。彼という役者を好きになった時のような、魂が震えるような瞬間をこれからも感じたい。感じさせてくれた!やっぱり天才の役者!テニミュを卒業してすぐに牧島くんが超満員の舞台に立って、素敵なパフォーマンスを披露して、沢山の人をハッピーにしている事が誇らしい!

  エーステそのものに対しての現時点での印象は、良くも悪くも乙女ゲームの舞台化だったということ。咲也が「A3!」というストーリーの主人公とも取れるけれども、主人公が監督(プレイヤー)である以上他のキャラクターに優劣は存在しないためにどのキャラクターにも平等に活躍の機会が与えられていて結果的に内容が薄く感じる。せめて春も夏も別公演にして、1幕でメインストーリー、2幕で劇中劇をじっくりと公演して欲しかった。

 とはいえ、ソロ曲のあるメンバー、ないメンバーはあり、上手い役者には活躍の機会が与えられて然るべきという考えなので本田礼生さん演じる三角の登場シーンに大きくリソースが割かれていたのは嬉しかったし、楽しかった。とても好きなシーン。彼は演技もダンスも上手くてグッとこの公演の水準を高めてくれている存在であり、それが夏組における斑鳩三角の立ち位置とも重なるなと思う。

 舞台全体の雰囲気はずっと楽しい。笑いに走りがちだけど、大体は小ネタの範囲内に収まっているし、原作と同じ空気感を纏っていたなと思う。

 真澄推しの原作ファンとして嬉しかった点は「ロミオとジュリアス」のエーステオリジナル公演曲が「僕らの絆」と繋げられていた点。歌詞先かなと思われるリズムの悪いオリジナル公演曲を聴いていた時はこの先どうなるのかと困惑していたけれども、“一緒に旅立つのさ〜”と咲也と真澄が歌い始めた時はゾクっとした。 

 冒頭のビロードウェイの説明を劇中劇の「長々とした説明台詞」として台本に組み込んでいたのは上手いな思った。

 千秋楽公演は正直感動した。感動したけれども、ズルいなとも思う。こんなのが毎度毎度まかり通るようでは、コンテンツとして成り立っていかないのではと考えざるを得ない。確かに面白い試みだと思う。「A3!」のメインストーリー自体も、ストーリーとして『千秋楽に客席を満席にする』ことを目標としていて、つまりひとつのゴールとして設定されているのは「千秋楽」だ。その上で「エーステ」でも『これまでの公演を踏まえてストーリーが一部千秋楽仕様に改変された千秋楽公演』をゴールに設定とした構成にすることによって「A3!」と「エーステ」のゴールが擬似的に同じ“その日”になるのは面白いと思うのだけれど、同じものを何度も何度も生身の人間が繰り返すからこそ生まれる差異の面白さを意図的に作り出すことはズルいように思える。千秋楽は特別だけど、それはあくまでやってる人間と通ってる人間にとって特別な公演なだけであって、偶然初めて千秋楽公演を観る人間にとってはいくつかあるうちのただひとつの公演に過ぎないとわたしは思うし、そうであって欲しい。どの公演であっても、それは特別な一公演であるべき。「一度きり」のハプニングを意図的に生み出すことは、「演劇的」な要素を人工的に生み出す面白い試みだけれど演劇ファンとしてノーと言いたいし、極論を言えばこれが何度もまかり通るようでは千秋楽以外が埋まらなくなる。エーステが埋まらないなんてことはないのかもしれないし、配信やDVD収録など媒体は多く用意されているけれど、舞台は基本生で観るものだから。演劇に対する愛がないなと正直残念に思う。

 凱旋からまた色々とガラッと変わりそうで、楽しみなような、憂鬱なような。

 おわり。

【本日の現場】Coloring Musical「Indigo Tomato」

 私にとって青は特別な色だ。未来とか、希望だとかは青い色をしていると思う。好きな色で、好きな人の色。五関くんの色、青学の色、そしてマーキューシオ様の色!そんな色をまた平間くんが纏って、ワクワクした顔をしていて、それを見られてとっても幸せな気持ちになった。彼の楽しいって顔がとても好き。

 母に捨てられ、弟を頼り生きてきたサヴァン症候群共感覚の持ち主の青年タカシの物語。私はこれを「いかに自分らしく生きられるか」を主題にした物語と解釈した。結局は自ら切り拓いていくのみだけれども、周りの応援は十分条件かなと思う。キッカケにすぎないけれどキッカケというイベントはすごく大事。抑圧されている人間がしがらみから解放に向かってゆく姿にはえもいわれぬ美しさがあって、魂が震えて涙をツーッと流してしまう。美しさを感じている時点で「共感」ではないのだけれど、この感情を現時点で私は「美しさ」としか表現出来ない。

 偏見を持たれやすい病が題材にされてはいたものの、過剰に哀れみを向けられたものではなく、かといって過剰に持ち上げるようなこともせず、その点に関して真摯さを感じた。ただの特性であって、それ以上でも以下でもない。私は平間くんの身体性が好きであるから、サヴァン症候群特有の挙動を演じる彼を見て彼により惚れ込んだ。感情よりもっと深いところから滲み出る動きは、身体性のない人間にはとても難しいと思う。

 身体表現が群を抜いて得意な俳優として彼のことが大好きだから、クライマックスのタカシが一番輝くシーンで表現として選ばれた手法がダンスだったのが嬉しかった。

 「私は好き」「僕は好き」という言葉があたたかくて、私は好き。他を貶めずに個を大事にする事はすごく大事なことだと改めて感じた作品だった。

【本日の現場】“テニミュ”の心象風景としての「Dream Live 2018」

 正直、Dream Liveの存在に対して少し懐疑的なスタンスを取っていた。コンサートを観たいならアイドルのコンサートを観ればいいと思っていた。役者が、「テニミュ」が、ライブをする意味とは?幕が上がるまでずっと考えていた。普段舞台を多く観ている人が集まるコンサートは盛り上げるのが難しいことも、私は知っている。

 モニターに映し出される「Dream Live 2018」のメインビジュアル、出演者それぞれの写真。観客は思い思いに愛称で名前を呼ぶ。ここまでは家で観た「Dream Live 2017」のBlu-rayと流れは同じだ。1曲目のイントロが流れ出し、ペンライトを振り始める。皆がキャストの登場を心待ちにしている中、真っ黒のモニターは白い文字でこう告げた。「ようこそ!」そして、「歌って!」。狂ってる!そう思った。客席から崩れ落ちそうになるくらいゲラゲラ笑った。まるでカラオケのように、相変わらず真っ黒のモニターに映し出された「THIS IS THE PRINCE OF TENNIS」の白い文字がリズムよく青に染まってゆき、観客はそれに合わせて歌い始める。演者が登場する前に観客に歌わせるライブは初めて観た。どう考えたっておかしいが、考える間もなく私たちは何度も何度も繰り返し歌った。「THIS IS THE PRINCE OF TENNIS」、「THIS IS THE PRINCE OF TENNIS」、「THIS IS THE PRINCE OF TENNIS」………。何度唱えたかわからなくなってきた頃ようやくテニスボールが無数に跳ぶ演出と共に「ありがとう!」という言葉が表示された。謎の達成感が湧き上がった。そして、再び破顔。今考えると、あれは、「テニスの王子様」の夢を楽しむための魔法の呪文だったのかもしれない。

 ノウハウがないからこそ、演者もスタッフも楽しんでるのがわかった。演者が歌う前に客に歌わせる演出を皮切りに、「負けることの許されない王者」で三強の立つステージだけせり上がってすぐに下がるのも、キャストがキャストに紙吹雪を撒くのも、悪口を大声でコールするのも、今まで見たことなくて可笑しかった。でもそのおかしさが心底楽しい。「アリーナなんて滅多に使えないし、なんでもやっちゃえ!」みたいな勢いが楽しくて、愛おしい。テニミュのドリームライブ、ずっとデビューして1〜2年くらいのジャニーズみたいなライブしてるんじゃないかと思う。あくまでもいい意味で、ずっと狂ってる。

 さて、「テニミュ」がコンサートを、ドリームライブを開催する意味とはなんだったのかという話に戻る。

 目の前に繰り広げられる景色を見て、最高に楽しみながらもどこか、白昼夢を見ているような奇妙な気持ちに陥っている自分もいた。「ドリームライブ」とは、誰が見た夢か?

 加藤将と井澤巧麻が演じたからこそ博士と教授のダブルスは復活を果たしたし、田鶴翔吾演じる真田弦一郎だったからこその「無我の境地」の演出だったし、3rd比嘉中だったからこそのラップだった。制作側からは、本公演時から既にこういう風景が見えていたように思えてきた。「ドリームライブ」とは、『テニスの王子様』の本編とは違った方向へ進む物語であり、しかしそれは無秩序で無関係に存在するわけではなく、観客含めミュージカル『テニスの王子様』に関わる全て、“テニミュ”という集合体が見た心象風景なのではないか。そんな夢想をしてしまうほどの人間の気配を感じた。意味とか意義とかでなく、そこにあった風景は確実にあった“未来”のような気がする。

 

 

 青学9代目、六角3代目のみなさん、卒業おめでとうございました。このカンパニーが大好きで、大切だって気持ちは一生忘れません。最高の“未来”を見せてくれて、ありがとう。