感想文としては満点

演劇と言葉あそび

【本日の現場】ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング

2018年5月16日 @HEP HALL

 記憶と記録に関する物語。記憶は不確かで、眠れない夜のように、あるいは起きられない朝のようにただそこらを揺蕩う。例えば今が朝の4時だとして、あるひとつの視点から見れば“今”は「眠れない夜」の一瞬であり、また別の視点から見れば“今”は「起きられない朝」という時間だ。どちらも間違いはなく、数字でさえ、客観的な情報でさえ、見る人によって意味が揺らぐ不確かさを多分に含んだ形の定まらない情報だ。そんな不確かさを含む情報に振り回される人びとの物語。

 「知らないこと」を知ってしまうことは悲しいことだなと思い、悲しい気持ちになっていたら永島敬三演じる温森春男がハラハラと涙を流していたのが印象的だった。世の中の大体のことは、知っているか、知らないことすら知らないことが幸せで、ベストな状態だと思う。知らないこと、忘れていることは存在しないも同じだからだ。

 良く言えば不思議なバランス感覚で積み上げられた芸術であるとも言えるし、悪く言えば不気味さも怖さも、そして言葉遊びについてもあと一歩足りないと感じる物足りなさがあった演劇だった。

げんいちろうくんとおでかけ!〜FSKのすすめ〜

 DreamLive2018始まりましたね。超楽しいです。気が狂いそうなほどです。もはや狂っています。公演中ずっと楽しいのでどうにかなってしまう。

 さて、DreamLive2018のグッズにはアクリルキーホルダーがありますが、このアクリルキーホルダーで私なりに全力で楽しんでいるのでお時間のある方は見ていってください。ちっちゃいげんいちろうくんの可愛さを自慢したいだけです。あんなにおおきくてかっこいいげんいちろうくんが、手のひらサイズになっちゃって一緒におでかけできるのすごくかわいくないですか!?かわいい〜〜。

 自画自賛なんですが、「#げんいちろうくんとおでかけ」というタグの字面がとにかくかわいい。このタグは実は元ネタがありまして、それが「#FSKとおでかけ」というタグです。

 FSKというのはフィギュアスタンドキーホルダーの略で、ハロー!プロジェクトのオフィシャルショップで販売されているグッズです。ハロプロファンの間ではこのFSKを写り込ませた写真をツイートすることがブームになっていて、そのブームの立役者が私が推してるユニットであるJuice=Juiceのリーダー、宮崎由加ちゃんなのです。彼女が発信した「#ご飯ととるのがいいと聞きました」タグから「FSKとご飯を一緒にとる」文化が広まり、FSKの人気が高まりました。ハロプロショップ公式アカウントが「#FSKとおでかけ」タグを同時期に設定、急速にFSKブームが広がった印象です。

 と、経緯はこれくらいにして。オタクの方はアクリルスタンドのひとつやふたつ、持っている方も多いと思うので、台座を流用して、是非 #◯◯くんとおでかけ とタグをつけてアクリルキーホルダーで楽しんでみてください!私が見たいだけなんですが!(げんいちろうくんのタグはよろしければ、私が勝手に嫉妬に狂うので、さなだくんでお願いします…滅茶苦茶言うな……)。

 お時間よろしければJuice=JuiceのMV動画も観ていってくださ〜い!歌が上手いのでライブ動画もオススメ。

【本日の現場】GEM CLUB II

2018年4月15日 @サンケイホールブリーゼ

 観ていて考えたことは、(任意ではない)推しが出演していると楽しい舞台なんだろうなということだった。(何度も言うが任意ではない)推しがいないことが悔しかったくらい。推しが出てないとつまらないクオリティというわけではなく、好きな俳優が一度に色々やらせてもらえる興行っていうのはなかなか無いからすごく楽しいだろうと思う。

 大阪千秋楽挨拶にもあったように、ダンスや歌がそこそこ出来る若手を集めて満足のいくクオリティとクリエやブリーゼくらいのキャパ感でショーを催すことは現状では結構難しいことなのかもしれない。それこそ、それを多少無理矢理にでも出来る主催って今の日本ではジャニーズ事務所くらいなもんで。いわゆる若手俳優を集めてこれをやろうっていうのはなかなか大変だったろうと思う。若手俳優が出演するだけの舞台なら2.5次元界隈に沢山ある時代だけれども、そこから一歩先のクオリティを求めて、かつ具体的なスキルを積める現場ってありそうでないので日本エンタメ界の光だなと思うし、是非続けていって欲しい興行。

 残念なところがあるとすれば、演出との兼ね合いもあるので難しいところではあるのかもしれないが、若手を育てる/ファンをつける事がGEM CLUBの趣旨であるならば、二部のショータイムで顔や髪型が隠れるような衣装はなるべく控えた方がいいだろうなーという点かな。

 

 多和田さんは天性の人たらしという印象を持つ。何故だかいつもニコニコと楽しそうで、踊りもなんだか「人がいい」んだろうなと感じてしまう。関西弁でベラベラ喋っているのがまた憎い。彼は手も足もすごく長いのにきちんと捌けていて上手いので、すごい。首も長いので表現に幅が出来るのが良いなぁと感じた。

 古田さんのリョーマを見たことがあるはずなのだけれど、その時は個人的にそこまで注目していなかった存在だった。けれども、この公演を観て、彼はなるべくしてリョーマ役を掴み取っていたのだろうなと感じた。何故かというと、彼は(特に舞台の端にいる時の)求心力が凄まじい。小柄な男性だけれども、むしろあのサイズ感で生まれて正解だなと思った。スタイルがよいからという理由で彼の求心力の強さを片されることがないから。ジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川さんがラジオ出演した事があって、その番組での彼の「昔は、アイドルは小さければ小さいほどかっこよかったんだよ」という言葉が印象に残っている。全く根拠がない話だったから彼の好みの問題ではないかとも思っていたのだが、身体的な魅力を、内面的な魅力が凌駕しやすい状態にあるからではないかと考えると合点がいった。ここでいう内面的な魅力というのはパーソナリティの話ではなく、ステージでの在り方についての話だ。媚びが無く、自信があり、俺はここだと言わんばかりのパフォーマンスに何度も目を奪われた。まさしく、あの求心力こそが“スター性”というものだと思う。ショーマンとして素晴らしい才能を持っていると思った。この公演をもって俳優活動に区切りをつけるとのことだが、正直残念に思う。

【本日の現場】Take Me Out 2018

2018年4月12日夜公演 @DDD AOYAMA CROSS THEATER

 目の前で10人程度の男がズボンや靴下やシャツを脱いだり、着たりを繰り返す。その合間に織り込まれる個々の信心、それに伴って思い描かれた偶像、あるいは差別(差別というものはつまりは人としてこうあるべきとする信心の規範から外れた人間を受け入れられない懐の狭さから起こるものだ)。ある瞬間に2つの気付きがあるまでは、ひたすらに地道で濃密な哲学の時間だった。シーズン中の試合進行の合間に様々な種類の傲慢さが交錯する。その進行の単調さが、この作品を濃密な時間であるように感じさせた。

 人とはかくあるべきであると理想を掲げる人間の信心は傲慢であるが、同時に他人のそれは当人以外の総てを侵食しながら傲慢ではない人間など存在しないと教えてくれる。人は誰しもが無自覚に傲慢であり、それを定期的に思い出しては自らを律することでのみ美しく生きられると私は考えている。哲学とは、己が美しく生きる為にいかに生きるべきかを見直すことだ。

 私は味方良介という役者から発せられる言葉の説得力を愛している。彼から発せられた言葉――彼が持つ声で、存在で発せられるもの――はまるで何もかもが正しいと思い込んでしまうほどの説得力を持つ。暴力的なほどの彼の正しさは、しかし彼の技術の裏付けでもある。彼の芝居をみる度に、板の上に立ち、戯曲を口にするために、演劇をやるために生まれてきたような人間だとつくづく感じる。キッピー・サンダーストームに彼を据えた事は、そんな彼の役者としての性質を逆手に取った効果的な手法だと感じた。彼の発する言葉の総てに信用性がなくなった瞬間――彼の持つ正しさの中に潜む傲慢さを暴かれたとき――まるで神様みたいな顔をしたキッピーが、人間に退化した。そのことに気付いた時、この演劇の、展開の調和が乱れたように思う。

 反対に、神様から人間へと“進化”したのがダレンだろう。序盤の、周囲の期待を一身に背負っても歯牙にも掛けないでいられるダレンの態度はまさに神様のようだった。あの堂々たる体躯であのような態度を取られたらどんな人間だって彼を神格化せざるを得ないはずだ。メイソンは私みたいな人間で、どのような点でそのように感じるかというとつまりはこういうところだ。あらゆるものに意味を持たせて期待したり、「君は私のようだ」と言って自分から切り離された物質について解った気になる点だ。傲慢で愛らしい。しかし、その傲慢さをダレンは許した。メイソン(とキッピー)が持つ傲慢さを。ダレンが神のような大らかさではなく、愛をもってして許したと知った瞬間、ダレンは私にとって、あの舞台上で誰よりも人間らしく愛おしい存在に変わった。あのいけすかない革のジャンパーを羽織った男をこんなに愛おしく感じた瞬間がこれまでにあっただろうか。

 結局、ダレンはデイビーの言う通り自分を曝け出し魅力的な人間として愛する人に愛されたのだ。最後に勝ったのは、やっぱりダレンだった!

 きっと観るたびに発見がある演劇なんだろうし、それをしてみたいとも思うのだけれど、なんとなく自分というものを崩されてしまいそうでこわい。そんな演劇でした。

 

“みんなダレンの事が好きだった。まるで、自分がダレンを作ったかのように。”