感想文としては満点

演劇と言葉あそび

「あんステ」にみる高次元のIDOL表現を可能にしたマンガ表現のない2.5次元演劇

2017年1月25日 1月27日「あんさんぶるスターズ!on stage 〜Take your marks!〜」

 「2.5次元舞台」という興行をする意義が「演劇」というものにとって、既存のものを破壊する、カウンターカルチャーのような文化として存在あるいは成長してきたのだとしたら、『あんステ』は持ち得る意義が圧倒的に弱いが、しかしその源流に限りなく近い。キャラクターが目の前にいて、キャラクター然としているという2次元キャラクターの立体化そのものの喜びだけで成立しているといっても過言じゃなかった。

 「あんさんぶるスターズ」はゲームシステムの性質上、モブはモブとしても登場しない。「立ち絵」が存在するのは登場キャラクターのみだ。“転校生”をモブとすることは可能だが、「あんステ」はどちらかというと(客席降り時のファンサービスにおいてはモブという扱いだった)観客はすべからく“お客さま”という立場だった。モブが登場せずに、“味方”と“敵”のみで物語が進行していく形式と、好きなキャラクターが目の前にいる喜びが最大化された「あんステ」は、なんだかヒーローショーを観ているようだった。ちなみにfineはヒーローというよりはプリキュアショーみたいに思えて面白かった。fineは特に心配していた要素だったのだが、安井くんは人類が再現し得る限りの“日々樹渉”を見せてくれたし、前山くんのゾッとするような間の取り方や“皇帝”天祥院英智に説得力を持たせる歌声はお見事と言わざるを得なかった。

 私が2.5次元舞台を好きなのは、“マンガ的”不可能を可能にする時、今までに考えつかなかったような手法と、あえて今までにやらなかった手法を使ってみせるチャレンジ精神、演劇の破壊と立ち戻りを一気にやってのけるパワフルさがあるからだ。“マンガ”を演ることは器であると信じたい。しかし、2.5次元の源流ともいえる 好きなキャラクターが目の前に存在する喜び無しに「2.5次元舞台」は存在し得ないことも事実だ。それを追求することを演劇行為としてなにかより下等なものであるように見るようなことはあってはならないのだ。また、この作品が 好きなキャラクターが目の前に存在する喜びの効果が特にあるものだったからこそ、最高に優良な接触現場だったことは間違いない。役としてアイドルが目の前に存在している限り、その裏を心配しなくてよいというのは至極心地がよかった。「あんさんぶるスターズ!」のキャラクターが、ファンが目の前にいてくれて嬉しいという顔をしてくれたとき、猛烈に喜びを感じたし、ときめいた。「アイドルライブ」ではなく「演劇」としてそれをしている限り、中の人がどう思っていようが目に見える形でその表情がある時点でキャラクターの感情に裏はないからだ。アイドルとファンの間に変な駆け引きがないのは接触現場としては最高の魅力だった。

 「あんさんぶるスターズ!」は一応「アイドル養成学園の青春物語」という設定なので、ぶっ飛んだ言動は多少あれど、2次元作品を演劇化するにあたって難所になるような “マンガ的”不可能が、ほとんど存在しない。キャラクターっぽいキメの動きを再現しないとなると、何度も言うがキャラクターがキャラクター然としていることが「あんステ」の2.5次元演劇たらしめるための要項になる。“マンガ的”不可能を抜きにしたキャラクター表現はそのキャラクターをそれたらしめる概念の集合体のような存在に思えて、目の前にいる“実在”しているはずなのに、むしろキャラクターの概念化が進んだのは面白かった。キャストは若手の俳優ばかりなので本業のアイドルに比べて歌やダンスが稚拙ではあったが、概念化された人間が舞台上で輝く様は、“アイドル(=idol:偶像的存在)”のようだったし、忘れかけていた本来アイドルに持つべき心の高鳴りを思い出した気がして嬉しかった。「あんステ」は、本業のアイドルでは表現し得ない、というか俳優がアイドルを演じるからこそ可能になる、より高次元のidol表現を可能にした高度なシステムだった。

シェイクスピア物語〜真実の愛〜

2017年1月21日 昼公演 2017年1月22日 昼公演 @梅田芸術劇場

 この興行を演った意味を私は見い出せていないのだが、相変わらず殺陣をする五関くんはちょーかっこよかった。こんなに豪華なキャストを集められるのならば、普通に、普通のシェイクスピアが書いた作品を演った方が10倍はよいものになった気がする。悪くはなかったけど、それだけというのが正直な感想。五関くんはああいうキャラクターを外部舞台でもらいがちなのでもう少し役の幅が広がると良いなと思う。

虚仮威しとは如何なる力か

2017年1月20日「虚仮威」@ナレッジシアター

 今、生きている喜びを感じられる。それが劇団柿喰う客の、ひいては演劇のちからで、魅力だなと思う。他人の生の躍動を感じて生きてるのを実感するのは不思議なことだなあと、いつも舞台やコンサートなんかを観ると考える。演劇というものは、少なくとも、多分、私にとって生きるための力なのだ。

 オチこそありきたりな、それこそ山のふもとで伝承されてきた民話ような理屈のものだったが、現代と過去、信じるものと信じないもの、下界と天界、人間と人間ならざるもの。ハイステ二作目でも感じたが、中屋敷さんは対照的なものをひとつの空間に混在させることがうまい。心地よいような 居心地の悪いような絶妙なラインでこころを撫でてくる。その上手さに唸らざるを得なかったし、過去編におけるオチは予想だにしないものであった上に、ムラの気持ち悪さがよく出ていて良かった。私は“血判状”のインクびんが昔から気持ち悪くてだいっきらい。それは古くから「みんなのもの」とされていて、それを家族の為に捧げようとしているのが“ムラの女”っぽくてなんともいじらしく哀しかった。

 「信心」とは如何なる力だろうか。これもまた不思議な力があって、例えばひとりの若い女優の将来を塗り替えてしまうほど大きな力があったりもする。この舞台では複数の人ならざるものが登場するが、それの力をすべて「虚仮威」とするならば、それらはなんの為に人間を虚仮威すのか。世界平和、自己の利益、あるいは虚仮威し行為そのものに意味があるのか。ほんとうのところは、神のみぞ知る、なのだろうが、ひとつ言えることは「信心が足りない」は最高の虚仮威し文句であり、しかしあながち「信心」のもたらす影響がないわけではない。つまり全くのウソでもないということだ。私は所謂「無宗教」だけれども、しかし何らかへの信心は深いつもりでいて、そういう、何かを心で信じることは、生きるために世間へ出来る精いっぱいの虚仮威しなのかもなあ、とかなんとか。虚仮威しているのは神の方なのか、それとも。感想を書くにあたって、最近起きた出来事を重ねてしまった。

ミュージカル「テニスの王子様」3rdシーズン 青学VS六角

2017年1月3日 @メルパルク大阪

 跡部キャストの特技であるバレエが盛り込まれている辺りも含め、劇場が可能性に満ち満ちた空間になるのがテニミュの魅力だよなあと改めて思った公演。“跡部様がバレエ”を正解にしたのはその他をきっちりと演じることが出来ていた跡部含め氷帝の実力ありきだと思う。まぁそれでも突然のバレエには笑いを禁じえないわけですが!しかし氷帝はなんだかチームとして完成された雰囲気だったし、それがすごく好きでした。

 青学メンバーが新キャストになって、初めて初公演から青学メンバーを見守ることになる(予定)であることがとっても楽しみ。今のところは、少年漫画然としたリョーマの主人公力の高さと不二くんの少女漫画のような美貌に惹かれています。